大阪朝日新聞道場の実力者武田時宗も認めた「総伝技」の達人!大東流の歴史を紐解く際、これまでに語られることの少なかった人物・中津平三郎。武田時宗師に「その技術は大阪朝日新聞社で一番優れていた」と言わしめる、この知られざる達人の足跡を貴重資料とともに紹介しよう。
この記事は、「月刊秘伝」2021年4月号に掲載されました。
中津平三郎は1894年6月1日、 徳島県、四国の阿波池田で生まれた。 大正時代、大阪府曽根崎警察署で警察官を務め、柔道家としては講道館 柔道五段錬士、競技者としても確固 たる地位を築いていた。
中津はその実力が評価され、 1930年代初頭には、日本政府の 元大臣であり自由民主党の創設者で ある石井光次郎によって朝日新聞の 警備隊に採用された。当時、過激派 右翼による攻撃を受けていた朝日新 聞大阪支社の警備を強化するために このチームは結成され、新聞庶務部 長在職、久琢磨主導の下に置かれた。
大阪朝日新聞社警備隊
1933年、植芝盛平は大阪に召 集され、この警備隊の指導にあたっ た。よって、久、中津、その他一握 りの数名は、新聞社の道場や曽根崎 警察署など多くの場所で、盛平から大東流合気柔術の技術を学ぶように なった。盛平の不在時は、東京から来た盛平の弟子たち、特に米川成美 と湯川勉が朝日新聞社の道場で教え た。
大阪朝日新聞社前にて弟子たちと。前列中央に植芝盛平、その向かって左隣に久琢磨(1935年)
植芝盛平の指導は1936年6月、 彼の師である武田惣角が大阪に到着 したことで終了した。惣角は「植芝 に全てを伝授していたわけではない ため、これ以降、朝日新聞の弟子た ちへ指導するのは自分である」と警 備隊に宣言した。
武田惣角を囲む朝日新聞警備隊。前列、左から:吉村義照、武田惣角、原田文三郎。後列、左から:河野哲男、武田時宗、中津平三郎。
興味深いことに、植芝盛平は当時、すでに後に「合気道」と呼ばれるものへの移行を行っていたが、彼が新聞社で教えたのは明らかに大東流合気柔術の技法であった。確かに、惣角自身はゼロから指導を始めるのではなく、盛平から引き継いだ時にはより高度な技術を教えることに決めていたので、弟子たちは盛平によって十分に鍛えられていたと考えていたに違いない。
また、植芝盛平と武田惣角が一時期、別々の場所ではあるが、実際に朝日新聞のグループを教えていたことを示すいくつかの証拠もある。教えに関する惣角と盛平の金銭的取り決めは記録上では不明確だが、時間と場所に関する多くの記載が惣角の謝礼録より見つかっている。
1938年11月14日に刀弥館正雄、久琢磨、中津平三郎、河野哲男らが出席し、御礼300円が徴収された(武田惣角の台帳からの抜粋)。
総伝と教授代理免許
この期間中、弟子たちは新聞社で入手できる最先端の資材を利用し、稽古で学んだ技法を披露する自分たちの姿を写真で撮る習慣を身につけていた。琢磨会に伝わる言い伝えによると、これは稽古の後、班長の久琢磨が惣角先生を風呂に連れて行っている間に、密かに行われたそうだ。
そこでは1500枚以上の写真が撮影され、慎重に封筒内に保存された。数年後1942年から1944年に、久琢磨はこれらの写真を編纂・注釈をつけ、『大東流合気武道伝書全十一巻』という名でいくつかの巻にまとめた。これらは「総伝」としてよく知られている。
久琢磨が編集した「総伝」の一巻
技法に関する説明も追加されたが、これはおそらく久自身が直接書いたのではなく、彼の指示に基づいたものであろう。総伝には計547の技法が記録されているが、朝日新聞社の道場では何百もの追加の技法が教えられたと言われている。
写真はプロの写真家ではなく新聞社の警備隊の部員によって撮影されたものだが、品質は全体的にとても良好である事に注目できる。この記事に掲載している写真は、スタンレー・プラニンが久から受け取ったマイクロフィルムからのものであり、残念ながら品質は元の写真よりも大幅に劣っている。
植芝盛平が教えた高度な技を中津平三郎と河野哲男が実演(「総伝」六巻からの抜粋)。
植芝盛平が1937年3月に曽根崎警察署長の森田儀一に授与した「「相生流奥意の巻」など、大阪の一部の弟子へ免許を授与したことはあっても、朝日新聞の弟子たちへ大東流の免許を授与したことを示唆する証拠はない。しかし、惣角が引き継いだ後はいくつかの免許を発行した。例えば、1936年10月、中津は「秘博奥儀之事」を授与されている。
1936年10月に授与された中津平三郎の「大東流合気柔術秘伝奥義之事」免許。
その後、1937年12月、惣角は中津と他何人かの弟子に教授代理を授与した。これにより、彼らは惣角の代理として教えることができるようになった。このことは惣角の「英名録」に記録されており、金銭的取り決めは以下の通り。
「生徒に指導する場合、武田大先生に入門料として初回三円をお支払いいただきます」
1937年10月 中津平三郎、阿久根政義、河添邦吉に教授代理免許を授与したことを示している(武田惣角の英名録からの抜粋)
注目すべき点は、これは武田惣角が1922年に綾部で植芝盛平に授与したものと全く同じ内容での免許である事である。
武田惣角の息子、武田時宗によると、教授代理免許は百十八の初伝基本術(現在の五段相当)と五十三の合気之術(表裏)、三十六の秘伝奥儀(表裏)、大東流合気二刀流秘伝、そして八十六の御信用之手、これらを習得した者のみに発行された。そのためこの免状は、植芝盛平に授与された当時、非常に高い指導水準であり、武田惣角が授与した最高位のものであった。
その後の1939年、武田惣角は久琢磨に免許皆伝を授与した。久はこれまでで最も高い位置付けの大東流合気柔術家として、惣角の技術的継承者となった。
免許皆伝を手に持った久琢磨と武田惣角。
武田時宗からの高評価
武田惣角は稽古や講習会で、弟子一人ひとりに合わせた指導をしていたことは周知の事実である。例えば、久琢磨は相撲の出身であり、相撲を愛好していた惣角は彼に相撲と類似していた技を交えながら教授した。中津は非常に経験豊富な柔道家であり、彼の残心は異なるものであった。そのため惣角から学んだ中津の技術は彼に適応するようわずかに異なるものであり、特に高い位置においての防御で、足を離してしっかりと接地していたその姿は、まるで"仁王像"の様であった。
これは朝日新聞のような比較的小さな研究グループでも、各弟子間に顕著な技術的な違いがあり、それは今日でも惣角の各弟子が生み出したそれぞれの姿に見られるという事実を強調している。その結果、四国の大東流は関西地域のものとは一線を画しているのである。
前列左から:久琢磨、武田惣角、原田文三郎、吉村義照。後列左から三番目に武田時宗、一人おいて中津平三郎、河野哲男。
大東流の歴史を読む時、中津平三郎についての記録は(特に英語では)比較的少ないが、琢磨会の総務長、森恕先生との会談中や他の著名な大東流の師範達から時折言及されることがある。
「あの当時久先生と一緒に精古をしていた方で中津平三郎という方がおられたのですが、武田時宗先生の御話では朝日で精古をしていた人達の中では一番技術が上で、久先生よりも技術的には優れていたそうです。」森恕氏に来るパート1合気ニュース#81
中津は、特に武田惣角の息子で後継者である大東流合気武道のトップ・武田時宗から高い評価を得ていた。確かに時宗は当時大阪におり、朝日新聞グループの熟練度を直接評価することができたのだ。
中津平三郎、五十代頃の写真。
中津は総伝の実演者としても非常に目立っていた。なかでも、彼は第六巻で植芝盛平の最上級の技、第七巻から第九巻で武田惣角に伝授された技を実演している。これは惣角との持続的かつ緊密な教伝関係から、彼がより高度な大東流の技術を習得したことを示唆している。
武田惣角が教えた高度な技法を紹介する中津平三郎(「総伝」九巻からの抜粋)。
帰郷と伝承
武田惣角は1939年に朝日新聞社での稽古を辞めたが、久琢磨の指導の下でその後も大東流の練習が続けられた。残念ながら、中津は1943年に軽度の脳卒中を患い、新聞社から引退せざるを得なかった。
中津平三郎は生まれ故郷である四国の池田に戻り、接骨院を開業した。そして惣角と盛平から学んだ大東流合気柔術を、接骨院の四畳の待合室で次の患者の施術までの時間に、千葉紹隆へ教えた。注目すべきは当時、関西地方の久琢磨の弟子は武田時宗と再会しておらず、秘伝目録百十八ケ条に基づいて修行していなかった点である。
生徒たちに囲まれた中津平三郎(前列中央)千葉紹隆(後列右)。
1960年ー月、中津は講道館から柔道六段の栄誉を授かり、同年12月に66歳で他界した。
文◎エラール・ギヨーム
フランス出身、科学者(分子生物学の博士号)および教育者であり、日本の永住者。東京の合気会本部道場で稽古を行い、合気道道主植芝守央から六段、大東流合気柔術四国本部から五段と教師の免状を授与される。フルコンタクト空手も練習している。自身の「横浜合気道場」で合気道を教えており、定期的にヨーロッパを訪れ、合気道や大東流のセミナー、武道の歴史についての講義を行っている。