葦原萬象氏に聞く

葦原萬象氏に聞く

以下は、1980年8月11日、京都近郊の大本教綾部宗教本部において行なわれた、葦原萬象氏のインタビューの模様です。

october 1981「合気ニュース」1981年10月15日発行第30号よリ。Aikido Journal転載許可済。

 編集者:始めて植芝先生とお会いになったのは、いつ頃だったのでしょうか。

葦原氏:それは昭和7年です。その当時、昭和青年会というものがあったんです。ちょうど、第二次世界大戦の前でしたので、そのような空気の中で、武道である合気道というものが重要視されてきましてね。私は、当時、昭和青年会の庶務部主任と会計主任をしておりました。「武道部を作る必要がある」と、こういう意見から、私が植芝先生に、武道部の主任になってくれるように頼みました。まだ大きなものじゃなかったですけどね。そうしたら、植芝先生は「是非、そうさせてもらいたい」ということでした。道場に自分も来て直接指導をしたり、あとは弟子達もどんどん送って指導をさせていました。私と植芝先生との関係は、このことが発端でしたね。昭和青年会の支部は全国にだいたい600くらいありましてそれらの支部に呼びかけて50〜60の道場ができたと思うんですよ。数はよく覚えていませんがね。いわゆる昭和青年会の武道部の道場がね。それで非常にその空気が盛り上がってきたもんですから、単に昭和青年会の一部とするより、もっと広い範囲にしたほうがいいんじゃないかということで、当時危岡に、コウテンカクという建物がありましてそてへ値芝先生と私二人だけで、出口聖師をお尋ねしたわけです。「こういうような意見が起きとるんですがどうでしょう」とお伺いすると、「それは結構なことだ。会を組織して独立体にして良い」と言われままして、「どういうふうな名前にしたら良いでしょうか」とお聞きしたら、即築に、「大日本武道宣揚会」という名前をいただいたんです。それから、剣道や柔道にも位がありますよね。「そういうような位をつけなきゃいかんと思いますが、どうでしょう」とお尋ねしたら、一番上から道士、宣士、揚士とね。これは、大日本武道宣揚会から取った三つの字ですよ。「子弟を良く養うように」と、こう言われましてね。初めは亀岡にその本部を置きました。私はその当時、亀岡の青年会に勤めておりまして、武道宣揚会の事務局長補に選ばれたわけです。それで出口聖師が総裁になられ、植芝先生には会長になっていただきました。その下は局長で、たしか熊本の方で松本さんとか言ったでしょうか。ところがね、集まって来られる方々が、合気道の猛者ばかりで、事務が取れないんです。いわゆる経営的なものがないんですよ。私は青年会のことをやっておったけれども、「事務は君に任せるからやってくれ」ということで支部の設置とか弟子達の派遣とか、そういうことをやっておりました。

編集者:その当時は、“合気道”という名前を使っていませんでしたか。

葦原氏:合気道という名前を使っていました。会の名前は武道宣揚会といいましたがね。

編集者:合気武道とか合気柔術とかいう名前は使っていらっしゃいませんでしたか。

葦原氏:私は一般に、合気道と言っていましたが。詳しいところは、わかりかねますがね。それでね、当時、一ぺん東京の道場に来ないかという話がありまして、新宿の若松町にある道場に4〜5日滞在したことがあるんですよ。その当時、軍人さんが多かったですね。前田公爵、その当時は陸軍中将でしたが。それから東京都民銀行の総裁でクドウ ショウサブロウという人もいました。その他、星のごとく海軍大将、陸軍中将、小将とか、盛んにやっておったですよ。その中で、熱心によくやっておったのが金沢のある名家の御曹子でね。ところが植芝先生は、「アレは上達しないよ」とおっしゃるんです。その人は自分はころばないんですよ。人を倒すことばっかりでね。日本的に言えば、「下座の行」ということで、自分も倒れながら、第一歩から練習するということをせんといかんですね。ところが、陸軍中将で、公爵で、偉い名家ときていますから、天狗になってしまいましてね。直接言ったら腹を立てるでしょうしね。こういうことから、植芝先生はそうおっしゃったんでしょうね。

編集者:その時代の竹下陸軍大将を御存知ですか。(竹下陸軍大将は、1920年中頃、大先生が合気道を教えるために、東京に移るのを援助した)

葦原氏:ええ、知っております。竹下さんもこちらに見えたことがありますよ。大本事件が昭和10年12月8日に起こりましてね。私は京都の刑務所に、約800日入っておりました。昭和20年に10年裁判の結果、無罪になりました。しかし、大本の建物はみんな無惨にもぶち壊されてしまいました。ボツボツ再建にかかる時に、植芝先生が参拝にやって来ましてね。その時に植芝先生が、「あんたにすべてを話すから、ひとつ記憶しておいてもらいたい」ということでいろいろな話をされたわけです。あとで御案内しますけれども、庭に、金竜海(キンリュウカイ)という池があるんです。もっとも昔は今の2倍半くらいの大きさだったんですが、大本事件の時に、埋められてしまったんです。それを再建し始めたのは大正3年頃だったと思いますが。動労奉仕として、土や木を運んだりする事が第一歩ですよね。植芝先生も、もちろん参加されまして、当時からたいへん」な怪力だったということでしたよ体は大きくはなかったんですが。しかしその当時、まだ自分には真の武道というのはわからなかった。力は強かったけれどもね。こんな事がありましたよ。土を運ぶのにモッコに土を入れて天びんにかけ、前と後の二人がかついで運びますよね。植芝先生が前でかついで運ぶっていうと、後ろの人は重たいのと、植芝先生の足が速いということで、ついて行けないんですわ。先生がかついでドーッと走るわけで、ふいと後ろを見ると、その人が棒にぶらさがっているという状態でね。他の人と同じようにできませんからと、結局私一人でやらせていただきますというんで、今度は天びん棒のまん中に自分が立って前と後ろに土を入れてダダーッと走る、これも事実らしいですよ。またその頃、特に植芝先生にだけとのことではないんですが、皆に聖師さんが、いろんな話、言霊(コトタマ)について話をされましてね。ちょうどその時、植芝先生は、力だけでは真の合気道というのは達成できないと悩んでいた時です。しかし、ふとした時にある事を教えられたんですよ。悟ったんですね。

今もあると思うんですが、金竜海のそばに柳の木があるんです。植芝先生が、そこのそばを通ろうとした時につまづいてしまったんですよ。その時、とっさにその柳の木をつかんでささえようとしたんですが、ダダーッと倒れてしまったんです。しならない木だったら、体をささえることができたんでしょうが、御存知のように、柳の木はしなってしまう。いわゆる抵抗しない、さからわないんですよね。それでひっくり返ってしまったわけですよ。「あっ、これだ」と、悟ったわけですよ。合気道の真ずいかどうかよくわかりませんけれど、一つの考え方として抵抗はしない、引かれれば引かれ、押してくればそれに応ずる柳のようでなければ、本当の武道というものは体得できないと、このような話を聞きましたね。もうひとつは、この合気道というのは、神から発しておるんだということ。いく分、具体的に申ししますと、人間の力というものは、百点満点ということはありえない、いわゆる完全というものはね。その実例として、十人、十五人の者が自分の周囲を取り囲み、つっかかってきたら、普通の人だったらもうだめですね。しかし、神から発している武道というものは、たとえそれが、十人、ニ十人であろうと、そこには完全なる攻撃力はないのだから、必ずその内の何パーセントにスキがあると考えられる。だから決してひるまないのだ。と、こういう真念を持っているから、どんな絶望的な状態になっても必ず切り抜ける所の余地が存在しているのだ、とこう悟ったので決して「もう、だめだ」と思うことはない、というような事を言っていましたね。大本教の教えから見ても、九分九厘で手のひらを返すというのがあるんです。九分九厘までダメになっても、残りの一厘ですべてのものがひっくり返ってしまうという事で、武道と同じことが含えるわけですね。それから先日、私、亀岡の方で霊についての講習会を開いたんですけど、仏教で白隠禅師という五百年に一人現われるというりっぱなお坊さんがおったんです。日本全国を行御(あんぎゃ)してまわり、ある小さなお寺さんで、そこの和尚さんから説教を聞いた時です。世間一般から言うと、それはたいした説法ではなかったかも知れないけれど、その白隠弾師は確然として悟りを開いたという話があるんです。それは、聞く方が単なるお坊さんの説教を聞くという態度からではなく、いわゆる釈如来の説法を聞いているんだという精神の上で聞くと、話している者以上に悟ることができるということです。それと同じ事が合気道にもあてはまると思うんですよ。あまり修業ができていない者の言う言葉の中にも、真理を求める気持ちがあれば、話している者以上に何かを掴むことができるという事ですね。植芝先生が私に「あんたの話を聞いて、言霊ということが、合気道の神ずいだとわかりましたよ」「私、そんなこと話しましたかね」と、お尋ねしたら、「あんた、話しましたよ」ってなことでね。もっとも植芝先生だから、悟りを開いたのでしょうが。

昔の武道家というのは、座禅をしたり、心身の鍛練ををしたものです。柔道家、剣道家も、時々座禅をくまれるかもしれませんが、仏教とか神道などの勉強は合気道に比べて少ない。これは問違っているかもしれませんが。精神的な何かを掘むのには、合気道が一番と私は信じておりますがね。また、戦時中のことですがね、私、ある工場の主任をしておって、夜業をしてたんです。空襲警報が発令して工場内が真っ暗になってしまいましてね。工員達と帰ることになったんです。宿舎に帰るには踏切を渡らんといかんかったが、遮断されているので渡れんのですよ。150メートルくらい上手にも横断するところがあるんですが、そこでよく人が電車にひかれて死ぬんですね。それで注意をして耳をそばたて、ダーッと一直線に走ったら、ちょうど急行電車が来ましてね。反射的に線路と線路の間に倒れて助かりました。これも合気道をやっていたおかげですね。合気道は、勝つ、いわゆる打っていくだけではいかん、自分もころばなくては、などと植芝先生は言っていらっしゃいましたが、私もころぶ修業をしておったおかげで命が救えました。いろいろな面で、かつて合気道をやっていたことが、非常に役に立ったように思いますね。

編集者:若本さんからいただいたこの「武道」という小冊子の中で植芝先生は直接、何かお書きになりましたか。

葦原氏:植芝先生がお話した事を、私が書き取ったんです。植芝先生が、「わしは書く事が得意じゃないから、君がやってくれ」と、頼まれましてね。

編集者:古級ということは、大本の教えの中にも入っていますか。

葦原氏:ええ、大本では、言霊学ということを盛んに取り上げていますよ。しかも、言葉の上だけの言設学としてではなしに、実際に言認によって、雨を降らし、風を吹かすことができる、そのような実験も、聖師さん自らされましてね。科学的な方面から言ったら、批判されますけれども。大本の基本というのは、世界の思想文化をことのごとく吸収して、新しい文明を築くという事です。ですから、キリスト教や、キリスト教の機械文明、仏教、需教、その他あらゆるものから共通点、いわゆる真理を体得して集大成する、これが使命なのです。人間というのは大本教では、霊体一致と言います。霊は心、体は身体のことですね。大字宙を支配するのは人間で、その人間が大自然をより美しく、りっばに整備してこの地上にバラダイスを築くというのが、人間に与えられた使命であると、大本では説いています。だから常にその方向に進まなければならないのであって、現在、問題になっている自然破壊などは、神の心に反するわけですよ。合気道というのも、武道という概念の面から、いきつくところは世界平和ということを目的としているんです。人間というのは、大学宙の中において、小さな器にすぎないから、なんでもかんでも全部はできないんですね。ですから自分に与えられた使命の範囲内で、神の御心において、地球上の人々が力を合わせて、地上に理想の世界を造って行く、その一つを武道の面から担当しようとするのが杭芝先生の理想であったんじゃないかと思います。

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