中津平三郎・千葉紹隆師範の後を継ぎ、現在、大東流合気柔術四国本部長を務める佐藤英明師範。徳島県美馬市脇町にある本部道場を訪ね、佐藤師範に四国伝の大東流合気柔術の特徴についてうかがった。
この記事は、「月刊秘伝」2021年4月号に掲載されました。
大東流と学業を修める道場
徳島県北西部に位置する美馬市は、吉野川や清流・穴吹川が流れる自然豊かな土地であり、中でも脇町にある「うだつの町並み」は、商家の富や成功を物語る歴史的建造物群としてつとに有名である。千葉紹隆師範と共に中津平三郎に学んだ大西正仁師範が、「青少年育成」のため大東流と学業の”文武両道”を学べる場所として、勤めていた保健所を退職後、私財を投じて郷里の脇町に建てたのが、大東流合気柔術四国本部道場である。
記者が四国道場へ取材に伺ったのは2020年10月のこと。本特集の案内人であり、四国道場の門弟でもあるギョーム・エラール師と朝に羽田空港で待ち合わせ、昼前に徳島阿波おどり空港に着いた時には、大西正仁師範のご子息である大西勝久氏が出迎えてくださっていた。
郷土の有名料理や、お遍路として知られる四国八十八箇所の一番札所・霊山寺を案内いただきながら、空港から車をー時間程走らせ、大東流合気柔術四国本部道場まで連れて行ってくださった。
四国本部道場は2階建であり、1階が30畳ほどの畳敷きの道場、2階が習字教室や数学教室などなどカルチャーセンターとして使える場所となっている。そして、この道場でお会いすることができたのが、千葉紹隆師範の後を継ぐ佐藤英明師範とご門弟の方々である。
徳島県美馬市脇町にある大東流合気柔術四国本部道場。
今回、佐藤師範に大東流合気柔術四国の技法や稽古体系の特徴について、お話を伺うことができた。
本部道場にて千葉師範と佐藤師範。
肘と親指を制する掴み方・掛け方
佐藤師範が千葉師範と出会ったのは平成元年、大西師範が脇町道場(現・四国本部道場)を開設した道場開きに見学に行った際だという。
千葉師範とともに中津平三郎から学んだ大西正仁師範(1928-2015)が。ギヨーム師を相手に、得意としていた掴みを実演。
「そこに千葉先生、蒔田(完こ先生、井津(栄光)先生、大西館長がいらして。すると千葉先生に『佐藤君、かかってこいー・』と言われて、僕も若干30歳くらいだったので、『そう言われるなら、かかっていこうか』と向かっていった途端、今から思えば小手返しでやられたんですね。飛んでいくというよりかは、あっという間にその場で足元に落とされて。それが涙が出るくらいに痛い。そうして千葉先生から『ここの大東流をやってみるか?』と言われて、思わず『お願いします』となったのが始まりです。
それからずっと千葉先生が池田の方から脇町まで通ってくださって、大西館長と千葉先生のお二人に、基本練習や昔からの稽古法、百十八本の型などを教えていただきました。千葉先生は、時宗先生から学び徳島に持って帰ってきた百十八本の技それぞれの中に、中津平三郎先生から教えていただいたものを全部詰め込まれました。そこにプラスして、小手返しや逆腕捕など、もう何本かの技が四国には伝わっています」
手首、袖、襟を掴まれた際、
学生時代は柔道や剣道、器械体操などの競技に親しんでいた佐藤師範だが、古武道に触れるのは大東流が初めてだったとのことC当初、大東流というものは全国統一、どこでも一緒だと思っていたとのことだが、それから14、15年が経ち、実はそれぞれの流派、会派、師範によって技の解釈や仕方が違うということが分かってきたという。
「それを考えますと、四国の技は古い型がそのまま残っていると言えるかもしれません。千葉先生、大西館長に最初から教えていただいたのは『畳一枚のところで相手を取り離さない』ということ。だから、半歩半歩で動ける状能一のところで技をかけていきます。投げ飛ばしというのがなくて、自分の丹田、中心線に相手を運んできて、すべて足下に落とすための稽古になっているのが特徴です。そのためには手首、肘の関節、それと親指を制するのが何より大事です。掛け手と、親指・肘を使わさないことに重点を置いて毎回稽古していました」
また、四国の大東流の特徴には、骨と関節、経穴を操作し制することが、ロ伝として重視されてきたことがある。これは柔道整復師として中津平三郎が、武田惣角の技術が人体に及ぼす深い作用を認識し、それを弟子たちに説明することができたといトつ占一によるところが大きい。骨や関節を制するために大事なことが手の、/掛け方"、/握り方/Jである。四国本部では最初の段階では「鷲掴み」により、どの部分をどのように捕らえたらよいのかを丁寧に細かく教えている。
千葉師範や大西師範は基礎鍛錬として、昔使われていた木製の電柱を一間(1メートル80センチ)くらいに切ったもので素振りを行っていたという。ここでは、両手で掴めない太さのものを、、/掴んで"持ち上げ、振り下ろして、丹田前で、”絞る”jことが大事なポイントである。また竹の根元の部分を向こうに、細い先の部分を手元にして、それを掴むのではなく四ケ条を行う際のように、/挟んで"、手首を返して根元を持ち上げる練習を、左右の手交互に行うといトっ稽古も行っていたそうだ。
①肘を制するために、鷲が獲物を捕らえるように親指から相手の筋肉を堀り束ねてから、榛骨頭近くから人差し指を当て始める。②次に中指、薬指、小指を順に、肘関節筋に圧力を加える。始めの稽古では指を一直線に揃えず、バラバラにして4本の指のいずれかが急所を掴む事を覚える。の鷲掴みできたら、肘の骨に向かって親指と人差し指の側面を当てて相手の肘を止める。
千葉師範や大西師範の体型は、鍛錬によって腕の太さがほぼ足の太腿ほどもあったというが、それでも「筋肉を鍛えるのではなく、手首を鍛えるということを中心にするように」と、佐藤師範は教えられたという。これら昔ながらのやり方は中津平三郎の頃より伝わる鍛錬法である。
「中津先生は武田惣角先生に会われた後に、警察官で柔道もしていたことをお伝えしたら、惣角先生は『柔道をしていたら本当の護身にならないので、大東流の柔道の仕方をしたらいい』と教えられたそうです。今で一言う百十八ケ条の基本から、道着で肘、関節を制する技法、胸を取られた際の返し方、千鳥足での相手の崩し方、そういったものを中津先生は惣角先生から教わり、それが千葉先生、大西正生を経て今に繋ってきているのだと思います」
高度なフットワークの重要性
大東流合気柔術四国の稽古階梯では、一番最初に「居捕」を学ぶ。居捕ではお互い距離が決まった固定の状況で型を作っていく。二番目に学ぶのが「半座半立」。受けが立っているの対して、自らは座っているので、身長差が約1・552倍の相手を崩す稽古をすることになる。ここで四方向から来る相手に対して、相手を自ら走らし、我が懐に落として技を極めることを学ぶ。それができるようになって初めて「立合」となる。立合では間合いも方向も、お互い自由に動けるようになる。相手が攻撃するとは、自分の範時にやって来るということである。相手の腕や足が当たるということは、それだけの距離に近づいているので、そこで関節、肘、足を通して、制することを身につけていく。そして最後に学ぶのが「後捕」である。
「後捕の意味は、千葉先生日く、千鳥足で足の裏を使って回転して、四方の敵に足で打ち勝つ、止めるということなんです。千鳥足を稽古しますと、いろんな技が『1、2、3』ではなくて、『1、2』になったり、手数がどんどん減っていきます。そういトっ足遣いは現代にはあまり残っていないみたいですね」
千鳥足
大東流の主要な教程の多くは、手技と掴み方に焦占一が当てられている。これは特に居捕を通じて強調されているが、体、脚、膝、足の捌きを会得しないと、必ず一手二手と遅れ、上級技にはつながらないのだと佐藤師範は語る。
「千葉先生、大西先生から教えていただく中で、『これをこうやったら総伝技になるやろ』とか『これをこトっやって変えたら奥伝や。こうしたら皆伝技や』というようなことを、稽古の過程や講習会で多々教えていただきました。今になって巻物などを何度も見返していますと、そこに書いてある内容は解釈の仕方で変わっていくんですよね。これはニカ条のあの技の変形の仕方で、攻撃のポイントが違うだけなんだなとか。千鳥とか後捕で単純さを学び、無駄なものをどんどん省いていったら、合っているかどうかわからないですけれども、総伝みたいな技もある程度ものになってきたのかなと、最近では思うこともあります」
基本技に潜む合気の種
紹年前に脇町道場に入門して以来、「この技は10年かかる、これは20年かかる」と一言われながら、師匠についてずっと学んできた佐藤師範に、ある時「合気」の掛け方についてふと頭に浮かんだ瞬間が訪れたという。
「『四段以上になったら人間性が間われる』というのが千葉先生、大西先生の変わらぬ方針でした。人間性とは心の鍛錬。人との接し方、話し方といったことが段が上がるごとに重要視されてきます。そういうお話を聞き、私も武術以外に色々と勉強をしていました。ある時、たまたま塩田剛三さんが腰を制する技を見てハッとわかったことがありました。『合気ってこういうふうにするんと違うんかな』と思い至って、千葉先生のご自宅に慌てて聞きに行ったんです。千葉先生に『合気の掛け方ってこーっいーっふーっにするんですか』とおうかがいしたら、『佐藤、それがわかったか。そうじゃ、それがわかったら、次はグー(拳)じゃ』と、その後の過程を教えてくれたんですけれども……」
千葉先生、大西先生から特段、”合気”を焦占一に教えてもらったわけではないので、それを自分からどういうものか説明するわけにはいかないと一言う佐藤師範。だが、鷲掴みで肘を制することができるようになれば、手刀でも肘を制することができるようになるC骨・筋を制することから人間の生理を知ることで、さらには拳でも、力を入れずとも同じように相手を制することが可能であることを佐藤師範自ら示してくださった。ひょいと相手を崩してしまう達人技だけを見ていても、そこからはなぜそのようになったのかの過程は決して見えてこない。大東流の古武術としての深み凄みは、やはりその教習過程の中にあるのではないか。
「合気の種は、基本の崩し、一ケ条の稽古の時から百十八ケ条を学ぶ過程を通して、そこかしこに埋まっています。自分の努力と人間性が加味して、合気ということがわかるようになる可能性や機会が、四国本部道場には沢山存在しています」
佐藤師範は確信を持ってそう語っている。
上の大東流の金バッチは允可証を頂きに上がった折に、千葉先生からいただいたもので支千葉先生日く、大東流合気武道四国本部時代に「初伝:銅バッ天中伝:銀バッ天奥伝:金バッチ」を製作し、許証と一緒に授与されていたとのことで支その当時は高知支部もあったそうです(佐藤英明・談)
技の中身を紐解き伝える工夫どんな武道・武術でも一番最初に習う技や型に、その流派・会派の全てが込められていることは多い。
「四国本部道場では、『一本捕』『逆腕捕』『肘返』そして『車倒』と順番に学ぶのですが、なぜ肘返が三つ目に入っているのかいつも不思議に思っていたんです。始めは肘返はただ単に受け身の稽古のためにあるのかなと思ってやっていたんですけれども、先生方の技の掛け方、崩し方をずっと見ていたら、肘返では三カ条の崩しを稽古するためのものだと、道場のみんなでわかったんです。一本捕はーケ条、逆腕取はニケ条の過程になりますよね。肘返では、胸に持っていって肘が詰まる時の手の形が三ケ条になりますし、そして、車倒しは四ケ条になります。ーカ条から四カ条の稽古が、百十八カ条の一本目から四本目の技に合致しているだということがすごく理解できました。その過程が百十八本の型の中でだんだん変化していく。簡単になって、手数が少なくなっていくんですけれども、結局それが全部繋がっていきます」
現在、佐藤師範は「ーケ条・ニケ条・三ケ条・四ケ条・五ケ条」のそれぞれに「1・2・3・4・5」と番号付けをする工夫を行っている。例えばーケ条の技をしている中でも、「そこは2に極めて、それは3の感じで、そこは4に持って、肘を制するのは鷲掴みー・」というような数字と簡単な技の名前の組み合わせで、大人から子供まで教えているという。
子供から大人まで大東流合気柔術の同じ内容を練習しているのもこの道場の特徴。
「技が理解できてくると、武田時宗先生が作って下さった百十八本の技の形態、その稽古の順番をまとめ上げられたことが本当にすごいと思えます。ナンバリングを通して技の形能一をそういう風に見ていけたらもっと理解が深まるのではないかなと。時代に合わすわけではないですけれども、そういうなかでみなさんがちょっとでも向上できるように伝えていけたらと思っています」
大東流合気武道武田時宗が綴る「大阪朝日新聞社の猛稽古の思出」
下の文章は時宗宗家自ら、大阪での稽古、中津先生、また四国本部命名の由来について書いてくださっているもので支。
「(前略)昭和十一年八月又惣角単身にて大阪朝日新聞社にて指導する為再度私は招かれて教授代理を勤めた。(中略)父惣角と私は大阪阿部野筋の門人長谷川芳郎氏宅に滞在して居り毎朝八時半に自動車の向かいを受けて十一時まで朝日新聞社別館道場で稽古を致しました。此時久琢磨氏の外、取締役営業局長刀称館正雄、元警部補吉村義昭、柔道五段中津平三郎、同四段河添邦吉、柔剣共四段レスリング選引II崎元悦、剣道五段阿久津正義、剣道四段栗田義恵等銃剣道の諸氏十数名の猛者達でした。久氏は此等猛者達を出勤前毎朝五時から角力の朝稽古を付けて居り大阪実業団角力界の巨頭として其の重きを成して居た。八十歳惣角の稽古も猛者連相手の為激しい技が多く、さすがの猛者達も辞易し惣角の相手を尻込みし何時も強情我慢の久琢磨氏が相手役を勤めた程である。朝日新聞の中津平三郎氏は久琢磨氏に次ぐ強豪で元警察署の柔道教師、人格高潔円満古武士の風格あり身体大きく頑健いつも朝日の稽古が終り父と私が入浴して居る時必ず一緒に入浴に来て父惣角の体を洗い流していました。柔道の大家として実に立派な献身的心がけに対して感服して居りました。(中略)惣角大阪滞在三ケ年間いつも献身的御世話下さった久琢磨氏に感謝致して八十三歳の惣角と二十代の私、共に退阪が最後となりました。久琢磨先生は惣角門下中唯一の皆伝を許されてたのである。中津先生は教授代理を許され戦後は故郷徳島県に帰られて合気武道を指導され其の流れを継いで現在、今井敏勝、千葉紹隆、蒔田完一諸氏により大東流が普及発展今日に至って居りま支大東流合気武道総本部宗家武田時宗より中津先生の功績と其遺風を後世に伝えるため四国本部として現在認可されたわけであります此の師にして此の弟子あり毎年四国より網走の本部に未だに稽古に来る熱意の程が偲ばれてなりません。(後略)※原文ママ」
「東流合気武道」(昭和50年1月1日発行第5号よリ(写真提供:トルーデル・マーク )
佐藤英明 Sato Hideaki
昭和33年9月栃木県宇都宮生れ大阪府豊中市育ち。大阪工業大学付属高等学校卒後コンピューター専門校へ進学。父親の郷土、徳島県美馬市へ移り、自営業を継ぐ。商工会副支部長、美馬地区保護司、児童民生委員活動を通じて、大西正仁市議会議員夫妻と知り合い、平成元年文武両道目指し脇町道場を開講時、千葉紹隆、蒔田完一、井沢将光氏の実戦講習を受け四国本部へ一人入会。大西、千葉先生亡き後、令和元年7月より四国本部を継承し現在に至る。