合気道研究家ギヨーム・エラール氏が、合気道の発展と普及に寄与した外国人武道家の伝記を紹介していく本シリーズ。これまでにアンドレ・ノ久クリスチャン・ティシェ師範について紹介してきたが、今回は''アイルランド合気道の父,,アラン・ラドックが登場。ラドック師が旧本部道場で見た植芝盛平晩年の「合気道」とは!?
この記事は、「月刊秘伝」2022年02月号に掲載されました。
本シリーズでは、今日のように世界へ広く普及した合気道とは異なるも、それぞれ独自のアプローチから合気道を探求した外国人修行者たちを日本の人々に紹介することを試みたい。今回紹介する人物ほど、「パイオニア」の称号にふさわしい人物はいないであろう。なぜなら、彼は自国アイルランドに合気道とともに、空手道も導入したからである。
アイルランド空手の創始者
アラン・ラドックは1944年、ダブリンに生まれた。13歳の時、E・J・ハリソンが書いた柔道の本を偶然手にしたことがきっかけで、生涯にわたる武道への興味を持つようになった。そして、地元の道場で熱心に柔道の練習を始めた。
16歳のとき、ハリソンが書いた空手の続刊を見つけた。当時、アイルランドには空手の指導者がいなかったため、ラドックは実家の庭に巻藁を作り自修し、また学校の友人数人に空手の初歩を教えていた。ラドックは、アイルランドで最初の空手団体を設立し、英国空手連盟に加盟したことで、イギリスの村上てつじ哲治先生のクラスを受講することができた。
村上哲治とアラン・ラドック
「その頃の村上先生は、非常に厳しい方でした。彼の言^っことが理解できなければ、顔を叩かれて注意を促されたものでした」
アラン・ラドック
ラドックはすぐに上達し、初対面の村上から5級に認定された。また、村上をアイルランドに招き、自分の生徒たちに指導してもらった。
「アイルランド政府の閣僚が陸軍将校に連れられて来たとき、私は演武を行いました。将校は非常に感銘を受け、軍隊の非武装戦闘に空手を採り入れたいと話していました」
アラン・ラドック
2007年、イギリスでの合同セミナーにおいて、東恩納盛男とアラン・ラドック。
正式な空手の練習をやめた後も、ラドックは空手界とのつながりを持ち続け、しばしば公式行事に招待された。今日、彼はアイルランドの空手の創始者として記憶されており、彼の先駆的な時代についての本も出版されている。
究極の武道との出会い
村上哲治は静岡県出身で、望月稔先生に合気道も習っていたが、ラドックに合気道の技を見せたところ、即座に、彼の関心に火をつけた。アイルランドでは、このような合気道はあまり知られていなかったので、ラドックは何とかして藤平光一の本を購入し、空手と同じように独学で学び始めた。ラドックは、柔道や空手と違って、合気道の創始者がまだ存命で活動していることを本から理解した。
「私には、合気道は究極の武道に思え、その本質に近づくためには、創始者から学ぶことが必要であると考えたのです」
アラン・ラドック
当時、ヨーロッパから日本への渡航が非常に困難であったことは言うまでもないが、ラドックは商船隊のマルコーニ式の無線士官になるための訓練を受けていたため、世界中を旅することができた。そして、1964年末に数日間だけ日本に派遣された。下船後、ラドックはすぐに新宿の合気会本部道場に行き、稽古を見学した。残念ながら大先生(植芝盛平)は不在だったが、ラドックはその時見たものを気に入った。
また、当時、本部で稽古をしていた外国人のケネス・コティアとヘンリー・コーノにも出会った。彼らのおかげで、外国人が日本に住むことが可能であることを知ったラドックは、再び東京に戻ってきて、本部道場で稽古をすることを決意した。
本部道場でのともに修行し、その後に再会を果たした、ケネス・コティア、ヘンリー・コーノ、そしてアラン・ラドック(左から順に)。
アイルランドに帰国したラドックは、すぐに日本への移転の準備を始めた。ラドックは、本部道場を代表して手紙を書いてくれたコティアの協力を得て、アイルランドの日本大使館から合気道の練習を目的とした1年間の文化活動ビザを取得した。
在アイルランド日本大使館が発行したラドックのビザ。滞在目的は合気道の稽古と記されている。
当時、アイルランドにはまだ合気道がなかったが、1965年の夏、ラドックはイギリスに渡り、1961年に合気会の代表としてフランスに進出した中園睦郎先生の講習を受けた。ラドックは、「このような正式な指導を受けることができて楽しかったが、それにより日本で直接合気道を学びたいという気持ちがさらに強くなった」と私に語った。
複雑に入り乱れる先人の想い
私はアランの一番身近な弟子とは言えないが、日本への関心とい、つ点では、特別なつながりがあったと言えるであろう。もちろん、彼の生徒の多くは日本や日本文化に興味を持っていたが、彼が旅に出たときに自らの中で燃えていた火と同じものを、彼が旅に出たときと同じ年齢で日本へと旅立とうとする私の中に見たのだと思う。
アランはいつも正直に話してくれて、「合気道は大先生と一緒に死んだと思っている」と語っていた。そのため、自分で日本を発見したいという私の気持ちを理解しながらも、合気道を学ぶために日本に行く意味を見いだせなかったようである。皮肉なことに、当時、彼が日本へ旅立つことを、中園先生や他の指導者からは特に勧められていなかったのである。それどころか、アイルランドの日本大使からは、「合気道を学ぶために日本に行くなんて、どうかしている」と言われてしまったのである。結局、彼はこのような励ましの言葉がないことに気を落とさなかったし、私もそうだと思っていた。
本部道場での稽古風景。左から7番目がアラン・ラドック。
もちろん、私たちが一緒にいるときは、あらゆる機会を利用して、アランに日本での生活について尋ねた。イギリスやアイルランドで開催された彼のセミナーに参加するためによく出かけたのだが、クラスが終わった後、ほとんどの人がパブに行っていた頃、彼と私は長い夜を過ごし、アイリッシュブラックティーを飲みながら、東京での生活や本部の稽古について話した。彼の話は、日本人との生活がどのようなものであるかという私の認識を明確にしてくれた。
"合気道の稽古のため"のみの来日
ラドックのビザは1966年1月26日に発行され、2月2日にマルセイユを出港した「ル・ベトナム」号に乗船した。
マルセイユを出発して6週間後、ラドックは横浜港で下船した。ケネス・コティアと、1966年から1971年まで講道館で柔道をしていたイギリス人のジョン・ギャロンが彼を歓迎してくれた。彼らはラドックのために赤羽の宿舎を手配し、彼が落ち着くように手助けした。
アランは毎日のように本部の稽古に通っていたが、1950年代にアイルランドのような田舎で育った彼は、東京の大混雑、特に満員の通勤電車に耐えられないと感じていた。そのため、すぐに本部道場に近い東大久保の宿舎に移った。
アランは、外国人の中で唯一、ビザに「合気道の稽古に来た」と明記されていたため、毎日、集中的に稽古をしていた。
東大久保の宿舎。
早朝に2回、昼3時に1回、夜に最後の1回の稽古があった。日曜日は、斉藤守弘先生の指導で1コマだけであった。また、週に一度、朝10時から小林保雄先生と市橋紀彦先生の個人教授を受けていた。また、飯田橋の藤平光一先生の教室や大塚の西尾昭二先生の教室にも通っていた。空手家としてのアランは、西尾先生のパーカッシブなスタイル(衝撃的で歯切れの良い)を特に高く評価していた。
小林保雄先生と本部道場で。
大先生がやっている他の人とは違うこと
アランは大先生と練習するために来日したのだが、3年間の日本滞在中に200回近くも大先生の指導を間近で見たという。
「私が初めて大先生の動きを道場で見たとき、私は何が起きているのかとても注意深く見ていました。超自然現象や魔法だとは思わなかったですし、あまりにも簡単そうに見えました。元柔道家、元空手家として、この人は何をしていて、物事をこんなに簡単に見せているのだろうと思ったのです。それが私の注目の的でした」
アラン・ラドック
アランは、当時の本部の稽古について話すたびに、今の道場に比べて、雰囲気がとてもリラックスしていて、礼儀作法も今のように堅苦しくないことを主張していた。彼は、特に西洋では、礼儀作法が学習の妨げになると考えているようだった。
飯田橋の教室で藤平光一先生と。
また、彼が主張していたのは、初日から大先生は本部の他の人たちとは何か違うことをしていると確信したことである。
「大先生のやっていることが『普通』の稽古にそぐわないことは、聡明な観察者の目には明らかなことでした」
アラン・ラドック
しかしながら、ラドックは、どの先生も違う見せ方をしていて、大先生はその解釈の違いを気にしていないようだとも言っていた。アランはよく大先生の古いVHsテープを貸してくれたが、大先生のやっていることを理解したければ、他の人と違うことをしている占」を見つけなければならないと主張していた。
植芝盛平翁の指導風景と、見取り稽古するアラン・ラドック(向かって右から2 番目 )。
「合気道はやることではなく、知ることの》云術です。何を探せばいいのかがわかれば、何をすればいいのかがわかり、体が正しく動くようになります」
アラン・ラドック
旧皇武館道場で稽古をした最後の世代
外国人の練習生の数は非常に限られており、彼らは緊密な友人グループを形成していた。彼らは比較的簡単に大先生に近づくことができたし、ヘンリー・コーノやジョアン・シマモトのように日本語を話せる者もいたので、質問することもできた。ラドックは英訳された古事記を読んでいたので、大先生の難解な話を理解することができたのである。
留学生たちに囲まれる大先生。 左から右へ:アラン・ラドック、ヘンリー・コーノ、パー・ウィンター、ジョアン・ウィラード、ジョー・デイシャー、植乏盛平翁、ジョアン・ヤマモト、ケネス・コティア、アメリカからの訪間者、ノーマン・マイルズ、テリー・ドフソン(写真はジョルジュ・ウィラードがヘンリー・コーノのカメラで撮影)。
ラドックは日本に来る前にほとんど合気道の指導を受けていなかったので、多くの点で合気会本部道場の純粋な産物であったと言える。彼はすべての先生から学び、大先生からも刺激を受けた。1967年10月には初段を授与された。アランは、新しいコンクリートの建物が建設された重要な時期に本部にいたため、旧皇武館道場で稽古をしていた最後の世代の一人である。
アランラドックの初段証明書。
大先生晩年の軌跡を求めた「合気の道」
約3年後の1968年秋、アランは東京を離れた。アイルランドに戻る途中、数ケ月間香港に立ち寄り、1966年に香港合気会を設立した、同じ本部所属のバージニア・メイヒュー氏の運営を手伝った。
大先生がバージニア・メイヒューに贈った書の前て、香港合気会の生徒たちと集合写真を撮るアラン・ラドック。 「勝速日」という文字は、古事記の中で大先生が好んで使った表現(正勝吾勝速日)の一部。
アイルランドにはまだ合気道がなく、アランは組織を作ることに興味を持っていなかった。彼は以前の空手仲間に合気道を教え始め、そこから発展していった。
「私はロンドンを旅して、千葉(和雄)先生に少しだけ会いました。千葉先生は私をパブに連れて行き、ギネスビールを一杯おごつてくれました。そして、テーブルを叩きながら、日本には本物の合気道がない、なぜなら日本の合気道はみんな軟弱になっているからだ、と言ったのです。その時、私は自分の力が必要だと思いました」
アラン・ラドック
旧本部道場の前で、アラン・ラドックとヘンリー・コーノ。 後ろに周げられているのは近々完成予定であった新本部道場を紹介するポスター。
その後もアランは、合気会系の団体や先生方と一緒に稽古を続けていたが、徐々に世界的な大組織の一員であることに興味がなくなってきたことを実感し、最終的には決別した。
アランは合気道に対して、間違った礼儀作法や権威を感じさせない、率直なアプローチをしていた。彼のクラスはとてもカジュアルでフレンドリーであった。ずっと本部道場にいたので、ルールは誰よりもよく知っていたが、日本を離れるときに市橋先生がアドバイスした方法で活動してた。「お辞儀や正座など、私たちがやっていることはすべて日本のものであり、合気道ではないことを忘れないでください。帰国したら、自分のやり方で合気道を教えなさい」と。その通りにした。
他の多くの先生と同じように、彼は他の人が理解していない何かを理解したと考え、彼の技術は間違いなく非常に個人的なものであった。稽古を希望する人は誰でも歓迎されたが、彼は特に人を集めようとはしなかった。私の理解では、彼は自由な指導と他の代表者との摩擦を避けるために、ある時占一で合気会を脱退したのだと思う。
「他の人はSMASHーkidoをするが、私はとAiーkidoをする」
アラン・ラドック
2001年、ゴールウェイで教えるアラン・ラドック氏前列右端に座っているのが本記事執筆者のギヨーム・エラール氏。
アランはその後、大先生の晩年の書をもとに「合気の道」という独自の組織を立ち上げた。大日本武徳会から六段の段位を受け、独自に弟子に段位を与えていた。アランは1995年にヘンリー・コーノと再会し、アイルランドの西海岸にあるゴールウェイで毎年合同セミナーを行っている。私はそのサマーキャンプで、アランから初段と二段の段位をもらった。
私が日本に移ってからは、アランとの連絡は不定期になったが、メールや手紙のやり取りを続けていた。
「ギヨーム、君が日本を楽しみ、合気柔術を学んでいると聞いて嬉しいが、私が見たときに大先生が何をしていたかを理解したいのであれば、それはあまり役に立たないかもしれないね」
アラン・ラドック
私はいつも、合気道について十分に学び、肉体的なトレーニングを行い、体を十分に鍛えたら、再び戻ってきて、彼がやっていたことを理解するための研究に集中しようと心に決めていた。しかし、残念ながら2012年に彼が早逝したため、それは不可能となってしまった。
【注:この記事に掲載されている写真の多くはヘンリーコーノ氏が撮影したものです。 これらの写真の多くは、長年にわたって様々な合気道の本に使用されてきましたが、彼の名がクレジットされることはほとんどありませんでした】
文◎エラール・ギヨーム
フランス出身、科学者(分子生物学の博士号)および教育者であり、日本の永住者。東京の合気会本部道場で稽古を行い、合気道道主植芝守央から六段、大東流合気柔術四国本部から五段と教師の免状を授与される。フルコンタクト空手も練習している。自身の「横浜合気道場」で合気道を教えており、定期的にヨーロッパを訪れ、合気道や大東流のセミナー、武道の歴史についての講義を行っている。