この会見は1978年5月30日東京都新宿区若松町の合気道道主植芝吉祥丸先生のお宅にて行なわれたものでもる。道主が最近出版された大先生の伝説記て関するお話を何った。出席者社道主、合気ニュース級集者スタンレー・ブラニン、合気ニュース通山本みどり。
「合気ニュース」1978年8月15日発行第30号よリ。Aikido Journal転載許可済。
編集者:御著書『合気道開祖植芝盛平伝』の第一版が出版されましたのはいつでございましょうか。
道主:52年の9月の28日というから9月の末です。
編集者:この伝記を書き始められましたのはいつ頃でございますか。
道主:書き始めたのはいつ頃かというと、はっきりいついつからという訳ではないんですが、私の父が亡くなってからもう満9年になりましたが2、3年経ちましてから資料をぼつぼつ製理し始めました。それでだいたい51年の始め頃、本格的にとりかかりましてそれから出版社のほうからもひとつ応援をんで、そして一気にやった訳です。とにかくその前から北海道へ行ったり、それから和歌山からずっと歩いて見たり、綾部から亀岡、あの辺、それから但島のほうまですずっと歩きましたからね、ずいぶんもちらこちら父の足跡を追って行った訳です。ことに北海道なんか私始めて山奥まで行った訳ですからね。それで白湾村というところで実際の神社にも参って、それでその神社へお参りっるまではそれが植芝盛平に関係があるかないか、そcの人も知らなかった訳です。私が行きましてそして釘付になっている拝殿なんか、失礼だけれども人が住んでいないものですから向りの付長さんにてお願いして釘付を外しましてね、中へ入ったらちゃんと植芝盛平がいついつ寄贈したなんていうが書いてございましてね。そういり新しい資料も出てきましたものですからそれでこの本がだんだん出来てきた訳です。
編集者:御著書の前書きによりますと自竜村で田辺から白滝村に移られました御老人にお会いなられたそうでございますね。その方のお話を伺われました際ずい分貴重な新しいお話がたくさん出たことと思いますけれども、いかがでしょうか。
道主:それはね、タケダという人なんです。そのかじいさんは…私が会ってからまもなく亡くなったはずです。うちの父が田辺からいわゆる開拓団を組織しまして、北海道へ渡りましたんです。その時に父が団長になりまして、その集まった中にそのタケダという人も入っていた訳です。まだ若い人でした。10代だったでしょうね。それで一緒に行きましたものですから、父と苦楽を共にしたといりことで当時のことを覚えていた訳。それで合気道がさかんになりましてからね、一選その合気道のルーツを探るというような意味で白滝村の方まで合気をやった人がずい分訪ねたそうです。必ずそこへ行って当時の話を開いて婚るものですから、いささか講鉄調みたいになっちゃってね。なかなかよく…まも話がしょうちゅう同じだけれど…面白く話していましたよ。
編集者:タケダ何ておっしゃいましたんでしょうか。
道主:ええとタケダ何ていったかなあ…それはあの合気道新聞を見ればわかりますがね、ずっと前の合気新唱。
編集者:今日の白滝村はまだ小さいですか、それとも大きくなっていますでしょうか。
道主:あのね、今日の白確村は過疎地です、もうすでに。だからあょり発展性ももう将来ちょっと難しいんじャないかと…むしろ人口が波ってるんじゃないですか、9月の末、10月の始め頃になると霜が降りますから寒いんです。だけどなかなかいい所ですよ、温泉もありますしね。私、は9月頃行きましたんですが、向うの付長から村会議長、いろんな、村の幹部連中が一席、宴を張ってくれましてね、大変でした。
編集者:大歓迎でございましたね。
道主:ええそうなんですよ。で、さきほど言いましだタケダさんの話では、この辺が植芝さんの上地だったんよという話からね、相当な土地を払い下げてもらって、耕していたということです。それから、その人の話では私の祖父が田辺という所で長いこと村会議員かなんかやった人ですがね、非常に小金を持ってましてね、それで私の父、いわゆる合気道の創始者はその祖父の資産で北海道なんかへ来て大いに自分の好きな事をやったと、だからもなたの御祖父さんは体かったんだと、偉かったからお父さんはあのこりいうふりに合気なんかを自由にやゃれたんだと、子供のいりままに金を出してそしてやったということで…話してましたね。そういうことなんか話には聞いてましたけれど直にね、体験した人からの話は初めてでした。田辺から北海道へ渡る時、育森から脅函連絡線で浅りますね、それから鉄道が入ってないんですよね、白流村まではね、旭川から入るんですが、網走の方へ向けて、ですから馬車で行きましてね、雪の中を興奮して馬車がひっくりがえった話やらです。いろいろ苦心談を開きました。まあ昔は大変だったでしょうね。
編集者:道王は大先生と御一緒に北海道へいらっしゃった事はおわりですか。
道主:行ったぶはありません。私は北海道へ行ったのはそれが初めてなんです。うちの父が、北海道にいた当時は私、まだ生まれてないですから、それで北海道を引きあげて米て、京都の綾部という所で私rよ生まれた訳です。それ以来父が北海道へ渡った事はるりません。ただそれ以来、大正13年頃には蒙古へ行きましたし、また戦争中は満州なんかも行きました。それから戦後はハワィにも行きましたけどね、だけども北海道へは亡くなるまで行きませんでしたね。
編集者:大先生は、もちろん蒙古から満州まで行かれましたが、北京までいらっしゃてましょうか。
道主:北京へ行ってますよ。だけど今の北京じゃないですよ、昔だから、ね。昭和15、6年頃ですからね。それと蒙古へ行ったのは大正13、4年頃ですからずい分皆の話ですね。馬敗なんかが横行してね、大変な時代ですよ。
編集者:そうですね。前待きに大先生がこの伝記をお出しになるようにという事を前々から道主におっしゃていらっしたような事が沿いてございますけれども、その辺の所をもう少し何わせていただけますでしょうか。
道主:うちの父の伝記というのは1つ2つ出てるんです。だけどいつでもいわゆるその書いた人の主観に囚われてましてね。もる程度、奥色されたような節もありますんでね、だから正しい資料によって正しい伝記を出してくれ、という事はよく父がっておりました。しかしそれは私も生前はね、こういう伝記に手をつけるということは何か私自身としてもやりずらいものですから、そのままにしてたんですがが亡くなりましてから、ひとつ是非と思ったんですがね、なかなかすぐさま行きませんでね。それで約8、9年かかりましたけれども、資料も出来るだけ整備して出したつもりでございはす。だたら、いろいろな面で植芝腕平というものを桃色に見たり、赤に見たり、黒に見たりそれなりのイメージを持って考えてる人もあられると思いますけれどね。これは純粋な資料というものを中心にして、しかも私が見たり聞いたりしたところを、いわゆる主体にしましてね、それで積み重ねて行ったというふうにお考えいnただけたらいいと思います。
編集者:本当にすばらしい御本です。cれだけのものをたとえその前に資料を蒐集されまして整畑されておられましたとしましも、一年余りで一気なりますと、ずい分お時間を集中して一月なり、これに掛けられましたんですか。
道主:ええこの伝記はわりに時間かかりましたね。私は技の解説だとかそりいったものを大体全部で11、12冊書いているんです。これが12冊目位になるんでしょうか。それで私が汚いたのでは一番最初、今から20年ちょっと前に書いた 『合気迫』と、それからこれが一番時間かかりました。一番最初書いたのもやっぱり時間かかりました。
編集者:合気迫を志す者にとりまして、大先生の伝記、あるいは開祖の歩まれました道を勉強させて頂くのはどういう意味で重要でございましょうか。に書き上げられたとそれはね、合気道を修業されるという事、修業し王葉ようと志を立てられたということ、cれは、現在の合気道がすばらしいと、もるいは、合気道の在り方が自分にぴったりするという訳でこれを続いて修楽しよりと…これは非常に結構な話ですが、そうすればですよ、合気道というものは、どういうふうな原点に立って出発したかという事をひとつしっかり個んでですね、悠業するという事は、cれは修業する人の当然しなきゃならん事だと思うんです。ところが、現在、往々にしてちょっと食べただけで走る人がいますけどね。だから合気道っていうのは何だかさっぱり解らない。ただ手足を動かすだけが合気道位に思って終いにはその合気道の原点とは似ても似つかぬ形に発展して行くということてなりましたらね、これは非常にマイナスですしね。それによって合気道を海することにもなりますんでね。だたら植芝盛平といり人はどのよりを苦労をしてこういったものを掴んだかといり事、手足を動かすという本、これも大事ですが、手足を動かすじゃなく、魂なんです心なんですよね。心の修養、この心の修養が体の動きに表現されていなかったら、本当のものじゃないんですよねだから相手を投げつけた、相手を叩き付けたから、強いからこれは合気道だと、これじゃあね。あの例えば柔道でも空手でも強い人はいますよ、相撲だって強い人はいます。だから合気道でも強い人もいます。だけど本当の合気といりものは、体だけ強いじゃない、腕っ節だけ強いんじゃない、心と体とが一つになった所のもの。だからどんな難局に立っても、どんな事があってもびくともしないという魂が資われていなかったらこれは強いと言われないです、人間的な意味でね。だから人間の、人間そのものの人生をどういう原点に立ってこういう道を作っていったかということを理解して修業するということ、そうしましたら本来の合気道の道を取り違える事はないですからね。だからこうした物を積極的に読んで頂きたいとこう思りんです。それからもう一つことに言っておきたいのは、植芝盛平というものを偶像視しちゃって、オールマイティだと神様だとい風に思ってしまり人がよくあるんですが、まも一生懸命修業をするりえに於ては結構な話です。だけどやはり人間である限りはオーマイテイっていり事はないんですかられ。だからやはり合気の道をどんな苦労をしてどういり風にして個んでいかれたかということ、それによって自分なりの所調合気を修業する事によって自分なりの個性といクかより良い個性を引き出して行くといり事が合気を最も大切な事だと思うんですよね。
編集者:伝記の第一章でも大先生を神として、そして大先生の技を神技として見なすような風潮に対し、それは危険だという風におっしゃっておられますね。
道主:やっぱしある程度それは神技、神技には違いないし、なかなか大変なもので、日本ではいわゆる、普週的に、神というものは、なんでも神延が宿るということで、唯一、一神教じゃないですから、日本の神道というのはね。だからそういった意味で武道の神様だ、合気の神様だ、cれはもちろんそうです。それでいいんですよ、私共の在りかたとしてはね。だけどすべて何んでも彼でもオールマイテイてしてしまえばね、これは非常に危険だと思うんですよ。だからちょうど大東亜戦で日本がね、何でも彼でももう日本は神国だといり事にしてしまった極点がこいう様な事になった訳ですたらね。そういう事じゃなくて、合気道の本米の在り方というものを、植芝盛平先生といういわゆる創始者が如何に苦労して掘んでこられたかと、そして如何にこれをどういう形で私共cれを使用させて頂くというような道を作って、レールをつけてくれたかという事、これを理解するのが大切だと思うんですね。
編集者:大先生の武道は、長い御経験の中で変化し、特に初期の頃は、カとか技に重点を置かれまして、後には精神的な面をより重視されるように移ったというふうに承っております。大先生の自身の武道の変化と共に御教授法は、どのように変わりましたのでしょうか。
道主:私共の父はもう最後には、教えるというよりも天地の流れというか、「自然と一体となる動きをするという感じでした。そして、自分の動きを弟子が見てそれを自得しろ、感得しろという形です。だからね、教えてやろうとー生懸命になるのではなく、全然そういった手を問題にせずにやってましたね。そういう天衣無登な動きですねえ。だからそこまで私共は行かなかったらいかんと思いますがね。しかし、やっばりこういう道場なんか開いておりますと、俗っぽい考え方で、如何に人を実めようとかね、如何にたくさんのいいお弟子を何とかつくろうとかね、そういうやはり我秋というか自我というかそういう物を私共はどうしても持つんですよね。だけど開祖はそうじゃなくて晩年はもう天真爆漫、自分の動きをそのまま自然に表現するということでる者はついて来いと、習いたい者はわしについてこいと、こういう風な動きでしたね。だけどそれは私尊いと思いますよ。今はこういう風に我利我利の世の中ですからね、もうとにかくギブアンドテイクとにかくああいうふうにするとこれはどれだけの得があるかと、損得勘定ばかりの世の中です。そういう事じゃね、心の鍛級になりませんわね、人間的な……。益々動物的な感じですが。そういう所にこうした開祖のような動きから発するところの内の動きという物に非常に、何というか私共、強くひかれる物を惑じます。もっとも父は若い頃は非常に体が一背は低かったんですが頑健でした。え-30代、40代、50代はね。ですからいわゆる横の中もね並の人じゃなかったんですよ。それだけに技そのものも非常にすさまじいというか強いというかそういう感じで横溢していましたがね。しかしだんだん発年になりますとそういう力とか強さというものはその中に秘められましてやんわりした服よかな一つの動きになってまいりました。これが本当のものだと思うんですよ。合式というのはそうでなくてはいかんもんです。強いより中心がしっかりして、その中心の中には非常にすさまじいエネルギーというか活力というか、絶えず燃え盛っているけれど6その表面は柔かい動きでね、万人を抱いてゆくというような、そういうものでなかったら本当の合気じゃなかろうと…開祖の合気もそういうふうに非常に苦心して修業されて精神的な修業もして、それからいわゆるそういう烈しさというものがだんだん動きの中へ秘められてそしてだんだん飛躍すると共に柔かい春風始高な一つの動きに変って来たと、だからそれが合気道としてたくさん人をひきつける所以じゃなかろうかと思うんですがね、烈しいばかりだと人は付いて米ませんからね、そういうことです。
編集者:先程のお話に挑年の大先生は、御自分の動きをお弟子さんの前で見せられ、そしてお教えドさるというよりはむしろお弟子さんのほうが先生の動きにひきつけられて合道を学ばれたとございましたが、大先生のお教授法は最初からそうでございましたんでしょうか。
道主:ええ、初はやっぱりちゃんとね、いちい5ビシッと教えていました。教えていましたけれども、それ程あまりこう何を作ろう、彼を作ろうというようなあまり執着にとらわれたような教え方じゃありませんでしたがね。だけどあの、一点、一分一軍、問途えないよう正確にやらないといかんという事で。最近、とにかく柔か過ぎて淡してしまって確実性、技の鍛練でも初心者がしっかりした確実な所をね、ま、そのままスッと流す人もいますがね、そういう事じゃなくて、やるからには、某本はびしっとせないかんです。これは晩年でもよく私共に言われましたね。びしっと一分一層違わぬように、基本をびしっと叩き込んでその動きの上でひとつの柔かみを付けていかなかったらね、本来の強みが出ないんだとね、最切からふわふわとお豆腐か何んかみたいにやったら一週に流れてしまうということです。だからやはり最初はしっかりした鍛が必要なんですよ。しっかりした最練が必要でそれを積重ねて行くうちに、だんだんだんだんそういった合気の厚みというものが出来てくるんです。柔かい厚みというものが出来て来るんですよね。
編集者:面白い逸話が一っございます。武田数角先生が、綾部にお戻りになりました折、その頃綾部で教えていらっしゃいました開祖の大東流柔術のテクニックを御覧になり、立版なさった、なぜなら大先生が技を少し変えておられたからだと、その頃もう既に大先生は、合気道に変って行くその過程に立っておられたというような事を何っておりますが、その点はいかがでしょうか。
道主:あのね、合気道と大東流柔術、今、合気道が盛んになりましたので大来姿合気柔術と称していますが大東流柔術と合気道は全然違います…あの本来の動きが、技そのものね。鍛練をするという意味で技の動きが若干以た所もあります。だけど心の鍛練というか心、霊…気持ち、心、霊ですね。こうした鍛練の行き方、解釈の仕方、これが全然私違うと思います。開祖が大正9年に大本ヘ一綾部へ行ったのは大正8年の暮なんです。それで大正9年1に柄芝弟という細ゃかな道場を持ちました。大休20畳前後の通場で私も覚えていますがね。それを大正9年に建てた訳です。それが、私共の父が道場を建てた最初です。そして当時はまだ大東流柔術といっておりましたが、大正11年頃ですか、黒然と式田数角さんがおみえになって、そういった所がいわゆる今の話で、大部変っているということでありましたんですが、とにかくこれは、大東流柔術というにはちょっと違うから、大東統合気、合気を入れようじゃないかというんで、武田数角さんにもぶって、父が大東流合気術ということに一時した沢ですよ。それでその時から武田数角先生も、大東流合気柔術で言い出したみです。それで大正11年から始まりまして13、4年になりますと、もう既に当時は人は呼んで植芝流業術だとかやれ合気柔術ー大東流合気条術から大東流を取りましてねー合気柔術、あるいは合気式道、わ、それから統芝流合気武道というふうな名称が大正14、5年頃から皆に言われ始めまして、東京へ出てきたのは、大体、大正15年から昭和の2年頃そしてその頃から既に合気武道、合気柔術と言うような名称で呼ぶようになりました。そして昭和5年に、ここへ木造の道場が建ったと、ここに道場があったんです。向うはうちのあの屋敷ですから。この、あの、ここ全部、うちの尿敷でしてね。ここは戦後買い足したんですがね。そっちをと言うことでここに遺場がった訳です。それで合気道としましたのは昭和18年です。色々な問題で合気道としたんですが、戦後、合気道なら合気道らしい木来の合気道を告に発表し、教えなけりゃいかん、とこういう訳で、武の産み出しということで岩間で、ま、ちょうど岩間に居た訳ですよね昭和16年、17年に岩間へ行きましてね。そして17年の群から18年に大病を向うでしまして、そしてそれが治りましてからこれ(ひげ)生やしたんですがね、それで昭和20年に通場を建てたんです、完成したんです。斉藤君なんか、昭和21年頃入門したんですよ。私は一高最初、手を取った訳ですから覚えてますがね。それで昭和23年から財団法人合気会というようにしまして活動を開始したと。その前にこの道場を駆和16年頃財団法人草武会という財団にしまして、戦争後は一時中絶したんですが、昭を23年に財団法法人合気会として再出発してその財団の動きを全国組織に私たち持って行iって、現行に至ってるんですがね。うちの父の場合は昭和35年か6年に素校炎章を買いましてね、それで紫投要章を買う契機にその時分からだんだん東京へ来るようになりまして、それで昭和40年頃から殆ど東京に居たんですがね、それで44年に東京で亡くなったと、こういう風な状況でした。だからま、北海道から京都の綾部へ行って、来て、東京に、え-そうですね。約14・5年いて、それからまた岩間へ行って10年ばかり向うで、そしてまた東京へ5、6年出て来て最後と、こういう風な状況でしたね。
編集者:次の質問は、合気道の将来に関してでございます。より国際的な広がりを持った将来の見通しを伺わせて頂きます。国際合気連盟(IAF)の現在の目的は、標準的な、あるいは基常となる指導法、あるいは基学となる本当の合気道と申しますか、それを広めることにあるというふうに思いますが、何人も似出した先生方が本部におられますけれども、それぞれ個性を持った技なりテクういう状態にありまして、どのようにしましたら正しい合気道の形なり指導方法を世界に広めていくことがt出来るとお考えでいらっしゃいますか。
道主:あのね、私は指導法を広めるとか、特にこう、どうするということはの次だと、先ず第一に合気道というものを通じてですよ。皆が仲良くすることが第一であるとね、えー、結局、お前のやっている事が間違いだと、合気道の本来の行き方からすると間違いだからやっちゃいかんと叩いたり、お前のが駄日だったと、これじゃあいけません。だからね、折角、開祖が苦心部で修業してそれから東京へ出てニックをお持ちでいらっしゃいます。そして合気道の道を開いて、緑があって皆さん合気道をやっておられると例えば合気道と名付けたものをやっておられても、それはやはりことに繋がってやっている盾なんですよ。そうであればまず第一に技術が違おうとも、国が違おうとも皆の人が合気で横に一つになって手を握ってですね、そして中心を目指して、合気遠というものでひとつ修業してもらいたいという事が第一ですね。それで日々研徴すると。それであとより良い動きにする為には、少しずつでも指導法を、ま、なんとか変えて行こうということになりますけれども、一つの枠を作ってこの中に何でも彼でも入らないといけないというような無理なことは、私はしょうとは思いません。してはいけないと思います。だから合気道の在り方というのは、本来もう天衣無縫、自然そのものですからね。その自然そのものの天理がうまくこう秩序に伴って動くという所に合気の動きがあるんで、所謂合気道の技なんかも色々種々維多ですが、それでいて懸け離れているようであって、一つの完全性があって一つの秩序が出来ているという所に合気の妙味があると思うんですよ。ですからね、あんまりその世に言う政治とか県想とか経済とかいうような枠組を作りましてね、所謂組織の枠組を作ってその中に総てを入れなかったら駄目だというような事は、私は考えておりません。合気連盟なるものは、だから先ず第一にみんなと仲良くする為に、この連盟が伸びゆかなければならないと思います。
転写福島けい