大東流合気柔術八段・小林清泰師範は、久琢磨の直弟子にして、師の教えを継承する「琢磨会」の幹事長を務める、斯界の重鎮である。
この度、合気道とその源である大東流を研究するギヨーム・エラール師が、「大東流と合気道」探究の先達である小林師範との長年の交流の上、この"リビングレジェンド"の来し方と現在の心境について取材、溢れる敬意とともに、紹介いただいた!
この記事は、「月刊秘伝」2021年7月号に掲載されました。
小林清泰(こばやしきよひろ)先生については、以前の私の記事でも何度か触れているが、特に私が大東流合気柔術を始めるに当たって、大きなきっかけと影響を与えた先生である。この記事では、小林清泰先生について、またその武道的背景について、より詳しくご紹介したいと思う。なぜなら、小林先生は、現在活動している大東流合気柔術界の中で最も経験豊富な一人であるだけでなく、大東流合気柔術の教えと合気道の教えを繋ぐ生きた存在でもあるからである。
中村天風の講習会と久琢磨の演武
小林清泰先生は、1942年5月20日に大阪で生まれた。小柄ではあったが、幼少の頃からスポーツに興味を持ち、特に陸上運動能力を高く鍛えていた。
12歳の頃、武道界に大きな影響力を持つ中村天風と出会う。天風は「日本のヨガの父」とも呼ばれる武道家である。当時、天風は大阪で14日間の夏期修練会を行っており、小林先生もそこに何年か参加していた。中村天風は、植芝盛平の弟子である藤平光一や多田宏をはじめ、多くの主要な武術指導者に大きな影響を与えた。また天風は、武田惣角から大東流合気柔術の免許皆伝を受け、植芝盛平から合気道八段を受けた久琢磨とも交流があった。
天風会大阪四天王寺女学校講堂で夏修練会の時、前列中央:中村天風師範、後列右から2番目が小林師範。
1960年頃、中村天風の講座の最後に久琢磨が演武を披露することになった。久は自分の弟子ではなく、その場にいたいろいろな人を使って演武を行っていった。小林先生は、久が経験のない若い女の子へ大柄な男性にうまく技をかける方法を教えていたことに感心した。小林先生は、彼女たちができるのなら体の小さい自分にもできるだろうと考えた。
その結果、小林先生は1961年10月、御堂筋淡路町の埼玉ビル3階にあった久琢磨の関西合気道倶楽部に出向き、門下生となった。初めて道場に入ったとき、練習場が8畳しかない狭さに驚いたという。しかし、この道場はすぐに近くに移転し、20畳の広さになった。道場の名前はともかく、久琢磨が教えていたのは、現在の大東流合気柔術であった。実際、大東館の資料によると、久は、武田惣角の息子である武田時宗の指導を受けていた大東流合気武道本部の技術部長を務めていたことになっている。
大東館の役員一覧(1973年8月1日、当時)。武田時宗は宗家として、久琢磨は大東流合気武道本部長として記載されている[Marc Trudel's blogより許可を得て転載]。
小林先生が入会した当時、久琢磨は脳梗塞で片麻痺になったばかりであった。久はすぐに復帰したが、体の衰えはその後の教え方に大きな影響を与えた。幸いなことに、小林先生は師である久琢磨の受けをたくさん取ることができたので、久の技の細かい部分を理解することができたのである。それが小林先生の技を特別なものにしているのだと私は思っている。
植芝盛平から合気道八段の称号を受ける久琢磨と立会人の植芝吉祥丸(牛込の皇武館道場にて1956年5月23日。
つまり、小林先生の技は非常に繊細で細かく、自分の体の中で力学が適切に働いているのを感じているということだ。これは、私がこれまでに稽古や指導を経験したことのある先生方の中でも、特に印象に残っている点である。また、小林先生の特徴として、普段の稽古では見学をさせないことが挙げられる。訪問はアポなしでも歓迎するが、大東流を理解するには、見るだけではなく、体で体験してもらわなければならないと小林先生は主張する。
小林先生は関西合気道倶楽部の稽古回数だけでは足りないと考え、森脇潔が指導する大阪朝日新聞社の道場にも入門することにした。武田惣角や植芝盛平の時代のように、稽古に来る社員は印刷局や警備員が多く、体格の良い人が多かったので、小林先生はそれを歓迎すべき挑戦だと見ていたという。
合気道との強い結びつき
久琢磨の教えには、1934年から1936年まで朝日新聞社で教えていた最初の師匠、植芝盛平の合気道の技術も大きく影響していることは否定できない。植芝盛平と武田惣角の技術をつなぐ、まさに生きた橋渡し役が久琢磨であったことは、小林先生やその弟子たちにとっても大きなメリットであったと言える。この合気道とのつながりは、その後、小林先生自身の人生においても深まっていく。
1962年、練習時間を増やしたいと考えた小林先生は、在学中の桃山学院大学に大東流合気柔術部を創設した。残念ながら、当時の久琢磨の体調では部の活動を統括することはできず、また久の代理として担当する人もいなかったため、植芝盛平の教え子である小林弘和先生に部と小林清泰先生の面倒を見てもらうことになった。
その結果、桃山学院大学合気道部は、財団法人合気会傘下の「関西学生合気道連盟」に所属する合気道部となった。そのため、小林先生はしばらくの間、大東流を久琢磨から、合気道を小林弘和から学ぶこととなった。
桃山学院大学合気道部の前で、小林師範(左)と小林弘和師範(右)。
1965年、小林清泰先生は久琢磨から紹介状をもらい、東京の旧合気会本部道場で植芝盛平の下で約1ヶ月間稽古をする機会を得た。また、その期間中、小林先生は空き時間を利用して、飯田橋にある塩田剛三の養神館でも稽古をしていた。
「久先生は『可愛い子には旅をさせよ』と思ったかどうかわからないが、大東流宗家武田時宗先生、合気会の植芝盛平先生、養神館の塩田剛三先生宛ての紹介状を書いてくださリ、それを持って各道場で稽古をさせていただいた。この頃は若く、がむしゃらに体を使うだけの稽古であったように思う。この出来事は私の合気道人生にとって、生涯の宝となった」小林師範・談
小林先生の稽古が面白いのは、この特別な訓練の歴史があったからだと私は思う。小林先生は、私がすでに合気道の訓練を受けていることを知っていたので、大東流合気柔術の特殊性を教えるために、合気道と類似した方法でその指導用語や指導方法を変えて教えて下さった。そのおかげで、すべてが明確になった。また、小林先生は他の多くの大東流の先生と違って、合気道を批判したり、合気道家を見下したりするような態度をとることは一切なかった。
これに関連して、私の個人的な話をさせてもらう。私たち夫婦の結婚式には、合気会本部道場の宮本鶴蔵先生や小林清泰先生をはじめとする、合気道や大東流の方々を招待した。この2つのグループがうまく交流できるかどうかわからないので、部屋の中での配置には細心の注意を払った。皆が部屋に入ってきたときはちょつと心配だったが、数分後には小林先生と宮本先生が仲良く名刺交換をしているのを見て安心した。二次会でもかなりの時間、二人で話をされていた。後日、宮本先生から「小林先生にお会いできてよかった」「とても気持ちのいい、謙虚な方でした」との感想をうかがうことができた。
筆者の結婚式での合気道と大東流の再会(2013年)。後列左から右へ、宮本鶴蔵師範(合気会本部道場)、小林清泰師範、駒井健太郎氏(筆者の先輩)、佐藤英明師範(大東流四国本部)。
多くの先生に師事
小林清泰先生は、久琢磨から北海道に派遣され、網走の大東館で武田時宗の指導による合宿に参加した。途中、網走の演武大会で会った堀川幸道をサロマ湖近くの湧別(武田時宗生誕の地)まで訪ね、3日間の指導を受けたという。また、余談ではあるが白滝へ訪ね、植芝盛平、武田惣角の開拓時代の資料、武具、銅像も見学したそうだ。
網走の大東館の前で小林師範(中央)と門下生たち(1968年)。
小林先生に大東館での合宿についてお聞きしたところ、よく覚えていないとのことだったが、武田家の英名録を調べているうちに、1968年8月19日121日までの記述の中に、小林先生の名前を見つけた。とても興奮してそれを見せたところ、小林先生の反応は彼自身のようにシンプ」ルで謙虚なものであった。「俺の名前を書いてくれていたのか?」と。
小林師範の名が記された武田家の英名録の抜粋。1968年に北海道の大東館で稽古をしたことが記されている。
小林先生は、合気の世界で最も経験豊富な一人であるにもかかわらず、私がこれまでに出会った先生の中で最も自慢しない人物だが、これもまた彼の性格をよく表している。小林先生の真の愛は、地位ではなく、”合気”に対するものである。小林先生が自分よりもずっと年下の人から指導を受けているのを見たことがあるが、その人たちに全神経を集中させ、見せられたことの詳細を理解しようと努めていた。私が頭でっかちになっている時にいつも思い出すのは、小林先生の学びに対する徹底したこだわりである。
琢磨会の高位の先生方の中で、四国の千葉紹隆先生(※本誌2021年4月号特集記事参照)の講習会に参加しているのを一番よく見かけたのが小林先生である。私の先輩であるオリビエ・ゴーランと私を連れて、千葉先生に初めて引き合わせてくれたのも小林先生だった。久琢磨と中津平三郎の弟子たちが徳島小松島の蒔田完一先生の道場で最初に集まったときにも、小林先生はそこにいたし、今でもそこに足を運んでいる。
師範への道大東流の研究者
久琢磨が高齢になり、娘さんと一緒に大阪から東京に引っ越したため、関西合気道倶楽部は1968年に閉鎖された。これを機に、小林先生をはじめとする数人の仲間が自分の道場を始めることになった。小林先生は、1970年に久琢磨から教授代理の称号を允可された。その後、1973年に久先生から大東流合気柔術八段を授与された。
蒔田完一師範が徳島県小松島支部道場で2日間のセミナーを行った際、久琢磨の指導の下、月19、20日。
その後、1974年に千里会館に朝日カルチャーセンターが開設され、久琢磨の教え子である山田三郎先生から、小林先生は講師を依頼された。それ以来、小林先生は指導をやめず、今では多くの門下生がそれぞれの支部道場を運営している。
1975年に琢磨会が結成されると、小林先生は幹事長に任命された。1980年に久琢磨が亡くなった時には、琢磨会の組織は十分に強く、久琢磨の教えを存続させることができると確信させるほどのものであった。琢磨会は、2016年9月に一般財団法人となった。琢磨会は、小林先生をはじめ、当時、理事(総務長)の森恕先生、技術理事(指導部)部)の川辺武史先生(※現・合気柔術講武館館長)など数名の方々の尽力により、成人会員500名、子供会員200名を擁する大東流最大級の団体として着実に成長してきた。海外にもいくつか支部があり、小林先生もよく海外に指導に赴いている。
小林先生は、技術者としてだけでなく、合気の歴史研究にも熱心で、執筆活動も盛んに行っている。琢磨会の会報や稽古手帳などの出版物にも力を入れており、寄稿した記事の数も多い。私自身も歴史好きなので、小林先生の仕事は非常に貴重で刺激となっている。
梅井眞一郎氏により外国人向けに英訳された、琢磨会の『稽古手帖』。
小林先生は、大東流合気柔術のカリキュラムは多岐にわたるため、非常に多くの解釈が可能であることを認識されている。小林先生は自分が知っているものを分類して、後世に伝えることに力を入れている。数年前には、弟子たちの間で内々に配られていた稽古手帖もまとめ直して、書籍を作成している。
生涯現役の学習者
小林先生のセミナーの面白さは、一つの技のやり方に対する知識の深さだと思う。先日、私と秘伝編集部の担当者が小林先生のセミナーに参加した。小林先生が定番の技を披露し始めた時、目の肥えた編集部員が「小林先生は同じ技を違うやり方で二度やっていましたよね?」と私に尋ねてきたので、私は次のように答えた。「はい、その通りです。しかもそれは、数年前に私に教えてくれたのとはまた違う方法ですー・」。小林先生は大東流の知識の生きた百科事典であることを示している。小林先生は、様々な先生から学んだ様々な方法で、細かい部分にまで気を配り、根本的な目的や原理を示してくれる。
「まあ、今となっては、私がやっているのは大東流でしょうね。力のぶつからないね、こんな大きな人だからって技できへんとかいうんじゃなしに、人を選ばないで、柔らかく、抜けて、技がかからなあかんねんと。女子でもできないと武術じゃないと、柔術じゃないんじゃないかなと。まあそういうつもりで、今、やらせていただいています」小林師範
筆者(後列中央)は、小林師範(前列右から2番目)と一緒に、千葉紹隆師範(中央)のセミナーに参加して、週末に四国で何度もともに時を過ごした(写真は2013年6月)。
小林先生は、私が何か間違ったことをしているときには、とても具体的な方法で教えてくれる。小林先生は、私に近づき、私を見て、首を左右に振り、微笑みながら、もう一度、正しいやり方を教えてくれるのだ。しかし、他の大東流の先生とは違い、小林先生はバリエーションや解釈にも寛容で、生徒が自分の技を試してみることを奨励している。
「合気道は先生方によってちょっとした技が違う。包容力があるというか、それがまた面白いんじゃないかと思いますね。こうやってこうならなあかんねんとか、がんじがらめのことやったら、発展性が少ないと思いますね。そやから、後は任せたよと。あなたが知った範囲内で磨いていったらどうですかいうね。そういう指導の仕方じゃないですかね」小林師範
小林先生は70代後半になっても、相変わらずお元気である。大阪の道場で定期的に指導し、私が所属するグループのために毎月東京に来て指導して下さる。また、年間を通して多くのイベントやセミナーに参加されている。
「私も最古参の一人になりました。幹事長という』旦場からではなく、一修行者として、更に大東流合気柔術を錬磨していきたいと思っています。稽古始めて四十数年になります。その割には下手糞ですが楽しんでいます。生涯稽古だと思う日々です。楽しく稽古をしています」小林師範
東京での講習会で筆者に細かい技術を教える小林師範(2014年4月 )。
私が日本に移り住んで以来、小林先生は常に、私の「合気探究」のインスピレーションとサポートの源であった。小林先生は優れた技術者であることはもちろん、それ以上に、畳の上でも下でも良い人間であることの重要性に目を向けさせてくれるのである。