今や世界中へ普及した合気道。その草創期に来日、修行に励み、外国人合気道家の魁となったアンドレ・ノケ師範。本シリーズ記事では、ノケ師範の衣鉢を継ぐ合気道史研究家ギヨーム・エラール氏が、師が残した貴重資料とともに、この武道が躍進した時代の“もう一つの合気道史”を紹介していく。第三回では、ノケ師範が日本滞在中に記した「日記」から、ノケの哲学と宗教が与えた合気道への影響について考察する。
この記事は、「月刊秘伝」2020年7月号に掲載されました。
私は『秘伝』2020年4月号に、1955年6月から1957年10月の期間、外国人として初めて植芝盛平先生の内弟子となったアンドレ・ノケの人生について記事を書いた。ノケは1999年に亡くなったが、彼は愛弟子であったフランク・ド・クレーヌ氏に遺品の管理を託した。その後、ド ・クレーヌ氏は亡くなる直前に、彼の後を引き継ぐ管理人として私を指名したのだ。私はその依頼を引き受け、注意深く慎重に遺品を調べてきた。本稿では、日本滞在中のノケが記した日記の部分部分を取り上げてご紹介したい。ノケの考えていたこと、その大志や、人間が誰しも心に抱える矛盾など、読者には様々な発見があると思う。パイオニアであるノケの心を覗くという以上に、この日記は、今日欧米で合気道がどのように理解されているかを知る鍵となるだろう。
日記は、1956年8月28日から始まり、1957年11月3日で終わっている。日記の終わりは、ノケが日本を去った時期と一致しているが、来日直後から56年7月までの記録はない。これ以前の日記が存在していたかもしれないし、ただ単に日本滞在の途中から日記を付け始めたのかもしれない。どちらにしても、ノケの日本滞在の1年目の記録は、残念ながら残っていない。
合気道と宗教
アンドレ・ノケの日記の表紙
最初に衝撃を受けたのは、日記のノートの表紙に大きな黒い十字架が描かれていたことだ。興味深いことに、私がこのノートを見せた日本人の多くは、この十字の印について、大先生がかつて話していたという天と地を結ぶ橋を象徴していると考えた。確かに、大先生はかつて合気道を「十字道」と呼んでおり、「合気十」という書き方もしていた。ノケはおそらく大先生からこのことを聞いていただろうが、このノートの十字には、更なる意味があった。ノケは生涯に渡り敬虔なカトリック教徒で、彼を知る人々は、この十字架がキリスト教の印として描かれていることは明白だと声を揃える。しかも、日記の多くの部分はキリスト教聖書からの引用がなされている。例えば、この表紙には次のような記載がある。
「十字架を愛するものは、その印で自分の身を守る」カトリック僧 John Mirk(ジョン・ムーク)(14世紀)
フランス人の私にとって、極東の神秘の類が書かれていると思っていたノートの表紙に大きな黒い十字の印を見たときは、かなり予想外で当惑させられた。私の弟子であるオディロン・ルニヤールは、私がノケの遺品の管理人を引き受けたときの証人でもあるが、彼は、誤解を受けることを恐れ、この表紙の写真を公表することに強い懸念を示していた。しかし私は、この十字架こそがノケの思考を解き明かすものであり、日本人以外の修行者が、それも全ての世代において、合気道を理解するための手助けになるのではないかと考えた。
ノケは1988年、フランスのラジオ番組のインタビューで、合気道における宗教の疑問について、次のように述べている。
ある日私は、私の師である植芝道主に訊ねました。「合気道は愛であると先生はいつも言っておられますが、キリスト教との強い関係性がありませんか?」 道主は答えました。「そう、キリスト教との強い関係があるが、あなたがヨーロッパに帰った時、合気道は宗教であると決して言ってはいけない。もしあなたが一生懸命に稽古すれば、より良いキリスト教徒になれるし、敬虔な仏教徒が合気道を稽古すれば、より良い仏教徒になるだろう。合気道は方法であり、一つの道である。宗教や哲学をより深く理解する手助けにはなるが、合気道は宗教ではない」このように彼は私に言いました。1988年、フランスクルチュール放送、アンドレ・ノケのインタビューより
カトリックの教義と合気道の精神的理想は何ら矛盾するものではないと、ノケが大先生の答えからそう受け取っていたことは明らかだ。彼はさらに、植芝盛平先生は、世界の宗教と合気道の精神的理想のある種の融合を提唱していたとも考えていたようだ。その結果、後年ノケは、自身の著作の中で、キリスト教の概念と植芝先生の理想を融合させようと試みていた。
この「合気」に至るには、「人間の体の内に神聖な魂を形成する」ことが必要である。即ち、非常に難しいことだが、深呼吸を鍛錬することによって宇宙の気と繋がり、神の中で毎日生活することである。「闇の中に光が輝け。」もし神、すなわちイエスが我々の内に存在するなら、我々は神聖な生を送ることができる。そうすれば、我々の「気」は「ドアや、壁、石、何にでも」、随所に満ち渡る。自分の中に「気」を持つことは、途方もなく大きな力となる。悪意ある攻撃は即座に阻止され、吸収され、打ち負かされ、消滅させられ、破壊されるのだ。我々は躊躇なく、前へ進まねばならない。1956年9月27日のアンドレ・ノケの日記より、植芝盛平先生の稽古の後で。
特にノケは、深呼吸の練習と祈りの間によく見られる類似性を指摘している。
呼吸。祈り。合気における二つの重要なこと。1957年4月17日のアンドレ・ノケの日記より、藤平光一先生の稽古の後で。
合気神社
彼の講演と著作を通して概観するに、植芝盛平先生の技における哲学的な本質を分析し表現するとき、ノケがキリスト教や西洋思想といった自分の文化的背景を中心として行っていたことは明らかである。実際、合気道に対するこの捉え方がそもそもの誤解の原因になっているとも言えるだろう。なぜならノケは、日本の心や文化、言語に対し、高次元の理解ができていなかったからだ。それゆえに、彼はしばしば確証バイアスがかかった状態で、全てを西洋哲学の視点から理解しようとした。例えば、ノケはしばしば、ローマ・カトリック教のような宗教に見られる独断的な主張を強調することをあえて省いていた。他の宗教、それが教義に基づかないより柔軟な仏教のような宗教でさえも、ローマ・カトリック教とは相入れない性質である。
植芝道主は、世界の始まりを聖書と同じように説明した(聖書を知らなかったにもかかわらず)。始まりには、一つの点があった。それは「気」であり、即ち、普遍的精神 − 神 − 神の精神である。「気」は音として現れ、それは言葉となって創造の力を持ち、音に寄り添ったリズミカルな道主の動きを説明している。自らが発する音(掛け声)によって、道主は有益な(普遍の)宇宙エネルギーを吸収しているのだ。1956年9月27日のアンドレ・ノケの日記より
さらに、合気道を実用的に解釈する際、聖書との間にある明確で直接的な類似点を挙げてみよう。
今日、私は聖書を読んだ(ルカによる福音書8:39)「あなたの家に帰り、神があなたのためにどんな大きな事柄をしてくださったかを知らせなさい」
神がイエスの中で行った。これは完全なる合気である。同様に、もし我々が彼に導かれようとするなら、イエスも我々の中で行うことができる。我々の体は単純に楽器となり、イエスに仕えるだろう。我々の言動は我々のものではなく、イエスが私たちの中にいて、私たちを動かす。これこそ本当の合気である。
「人々があなた方を会堂や権力者に連れ出す時、何をどのように答えようか、また何を言おうかと思い煩ってはいけない」(ルカによる福音書12:11)
本当の戦いの中で、敵に攻撃されたら、どう防御しようか、あるいはどんな技を使うべきか考えなくていい。なぜなら、何を成し遂げるべきかは、気=聖霊が教えてくれるのだから。1957年11月3日のアンドレ・ノケの日記より
日記を注意深く読み込んでいくと、ノケの性格と思考プロセスという、また違った側面についても洞察することができる。彼は、科学者あるいは科学的方法についてかなり軽蔑的な発言をしている。彼は、その理論が事実によって反証された科学者について、次のように関係機関に訴えた。
ケンブリッジ大学天文学研究所の創設者にして、その業績により英国女王から騎士に叙せられたフレッド・ホイル卿について、彼は、我々の宇宙に対する知識の基本となるほとんどの理論を否定している。彼は、ダーウィンやアインシュタイン、そしてカール・セーガンに、もう一度勉強して出直すよう言ったのだ。アンドレ・ノケ著『Maître Morihei Ueshiba Présence et Message』250-251頁
予想されたことだが、彼の著作には、紛い物の科学とニューエイジ的な考えが含まれている。ノケの言葉を読むとき、この点を注意して読み進めるべきだが、実際このせいで、合気道あるいは植芝先生の意図が全く誤解されてしまう可能性があるのだ。私はノケの多くの直弟子たちと稽古してきたが、こうした誤解が何世代もの修行者に受け継がれてしまっていることを非常に懸念している。特に、『秘伝』2020年4月号にも書いたことだが、ノケの弟子たちのほとんどは、日本に行ったこともなく、日本の文化や日本語を学んだこともないのだ。
ついでに言えば、ノケは有名な科学者であるカール・セーガンについて述べているが、実は、面白いことに、植芝吉祥丸先生もセーガンを読んで、感想を述べている。著書である『合気道のこころ』で、吉祥丸は次のように書いている。
もとより 『COSMOS』は哲理の書ではなく、全篇にわたって最新宇宙科学の成果をデータ的に実証してみせたいわば物理・化学"の書であるが、しかし前記の博士の評言からも読みとれるように、人間にとって宇宙とは「生命の大母胎」であり、人間は日々宇宙の秩序や変化とともに生きざるをえないという点など、結局、東洋哲理の直感・直覚的な示唆と相通じているといえるのではないか。植芝 吉祥丸 - 合気道のこころ p. 44
両者の解釈の相違が非常に興味深い。
日常の稽古と研究
日記が書かれたノートには、日本滞在中のノケの生活や稽古に関し、大変貴重な情報が収められている。合気道の技に関するメモも多く記されており、その分量は概ね日記と同じぐらいになる。
ノケがノートに記した技に関するスケッチ
本題に入る前に、日記の表紙にある最後の文章を記憶に留めておくべきだろう。その文章は、アンドレ・ノケの、なかなかに人間臭い本質的な矛盾を、何よりも如実に表していると言えるかもしれない。合気道についての著作は数あれど、その中においてもノケの著作は非常に多く、最も貢献した著者の一人であるということをぜひ覚えておいて欲しい。
合気道について書くべきか?
何世紀にもわたって、我々はセックスについて書いてきたが、我々はそこから何も学ばなかった。セックスを理解するには、実際に行うしかない。即ち、パートナーとの結合を沈黙の中で感じるしかないのだ。技についても同様であり、実際に稽古しなければ始まらない。技の理解は直感的であり、偉大な創始者たちは、技について多くを書き残してはいない。ノートに書き記したとしても、単にノートが技を記録してあるということにすぎず、自分の中には残らないのだ。アンドレ・ノケの日記より
このことは、ノケが日本滞在期間の後半になって日記を書き始めた説明にもなるだろう。書くことに対するスタンスをノケが変えたかどうかは、この際関係ない。いずれにしても、帰国の際にはレポートをまとめなければならなかったのだから、たとえぞんざいにでも日本での一年目の記録をつけていなかったとしたら、非常に驚くべきことである。残念ながら、この日記の他に、別の形で何らかの記録があるのかどうかは、確認することができなかった。多作で知られるノケであるが、彼は技術的なマニュアル本を一つも出版していない。晩年に撮られた映像が残っており、彼は解説入りのビデオを作ろうとしていたが、それらは決して身を結ばなかった。理由は不明である。
未完の解説ビデオよりスクリーンショット
フランス語を母国語とするものにとって、ノケの日記に充満する深い孤独には、心を打たれずにはいられなかった。彼は幾つかの機会に、自分の感じた孤立を明確に述べているが、当時の孤独の度合いをノケは後にこう書いている。
ほぼ3年間、私は日本語が話せず、それが原因で孤独だった。それは時々耐えがたいほどだったが、瞑想をするには願ってもない状況だった。アンドレ・ノケ著『The Strength of Japanese Spirit』(1983年)より
藤平光一先生が1年間の米国滞在から戻った1956年以外、彼は孤独だったようだ。哲学者の津田逸夫が時折、大先生の言葉をノケに通訳するために同席したことはあったが、毎日居たわけではなく、当時本部にノケと英語で会話できたのは藤平先生しかいなかった。興味深いことに、藤平先生の帰国と日記の始まりは同時期である。
本部道場にて、藤平光一とノケ(写真提供:小林保雄師範)
ノケのメモについて、メモに書かれた事柄をノケが最も重要と捉えていたのか、あるいは彼が最もよく理解したものと考えれば、彼の受けた主たる影響について、非常に興味深い見方ができる。ノケは植芝吉祥丸先生、奥村繁信先生、大澤喜三郎先生の稽古に出ていたが、日記に記載された多くは、藤平先生の教えについてだった。
藤平先生は、西洋的な教育理論を用いて説明しようと努力されたのだと思う。また、大先生の動きをノケに説明するときにも、やはりそうした理論に沿って行ったのだろう。ノケは、藤平先生の言葉を、次のように記している。
植芝道主は天才であり、それ故に先生はあなたに説明することができない。だから、私があなたに説明しよう。『合気道マガジン』1984年2月号、アンドレ・ノケのインタビューより
日記によると、ノケが殆どの稽古を東京の本部道場で行っていたことがわかる。大先生と岩間で過ごした時の写真が非常に多く、ともすると殆どの時間を岩間で過ごしたと思わせるが、これらの膨大な写真は、ほんの5日間の旅の間に撮られたものである。私は、合気会茨城支部の磯山博師範にノケについて問い合わせたが、やはりノケは岩間道場を訪れただけで、常にそこに居たわけではなかったそうだ。
岩間にて、ノケと大先生
このことは、ノケが植芝吉祥丸本部道場長と藤平光一師範部長の責任下にあったことをさらに裏付けている。
未来の計画
ノケは彼の学んだ合気道の教えや組織について、フランスに帰国した後のことを見越して、しばしば日記に書き記している。特に、合気道を伝え広めるうちに、その本質が失われたり、あるいは変性しないような教育システムの構築に没頭していたようだ。
ある人は、合気道は毎日変化し、もっと大きく変わっていくと言うかもしれない。それでもやはり、現在ある合気道はほぼ完璧と言える域にあり、講師たちがしっかり教えられるように今こそ教育システムを整備する時であろう。合気道を完璧なものにするため、様々な修正について常に合気道の本部と連絡を取り合う。また、講師たちの繋がりを深めるため、会報を発行するのも有効だ。1956年8月28日、アンドレ・ノケの日記より
ノケの日記の至る所に、合気道の技が護身術に応用できるということが記されているが、こうしたことが本部の稽古において、日本語で教えられていたかは不確かである。また彼はフランスに帰国した後、警察官や軍人に教えることを想定して、日本で学んだことをどのように応用すべきか繰り返し言及している。これは明らかに、今日の本部道場の稽古とは、完全に対照的だ。
ノケは川石酒造之助による合気をベースとした護身術に対し、しばしば異を唱えている。面白いことに、ノケは川石のフルネームに言及したことがなく、彼のメソッドを「柔道式」「カワ式」「K式」などと呼んでおり、殆ど暗号のようであり、大きな心理的な偏見がここに読み取れる。
フランスに帰国した後、私は短刀で武装し、西洋護身術の専門家たちに道場破りを仕掛けるだろう。彼らはみなK式で防御するだろうが、私は合気道の普遍的本質を活かし、抵抗せずに受け流すだろう。1957年4月1日、アンドレ・ノケの日記より
これはしかし、ノケの性格のもう一つの矛盾を示している。彼の著作やメモを見ると、争わず、エゴを手放し、対立せず、と言っていながら、個人的な日記には、道場破りをするというような記述が見られるのだ。
ノケを知る人たちは、彼がプライドの高い人物だったことを知っている。日記の中に、それを知ることのできる面白い記述がある。それはスピーチを文字に起こしたものであり、第一次世界大戦の終戦を祝うという場面で、外国人の聴衆に向けて行われたものである。
1956年11月11日、外国人に対するスピーチ
(前略)東洋と西洋の考え方は正反対であり、学び取るのは容易ではないが、日本において外国人である我々私は、道主や他の最も優れた先生方に直接教わる機会がある。私が思うに、それを我々の国々私の国に帰国後、西洋人たちに少しずつ応用し伝えていくのは、我々私の責務である。今日、この座談会を企画したのはその為だ。(後略)
この部分が記載されたのは、スピーチが行われた時よりも後の時期だった(日記には英語で記載されていた)。なぜノケは元のバージョンを文字に起こし、それをわざわざ訂正したのか、理由は不明である。数日前に元原稿を読んでみて、変えようと決めたのだろうか? それは誰にもわからない。しかし、当時本部道場で稽古していた外国人がノケだけでなかったとしても、他の外国人がそこに住んでいなかったことは事実である。また、ノケは大先生の合気道を最初に紹介した外国人というわけでもない。この修正が、彼がより自分に注目を集めようとした証になるだろうか? 今となっては、確かなことは誰にも言えないだろう。
我々にわかることは、ヨーロッパに帰った後、ノケは欧州での合気道のトップになることを期待していたが、残念なことに、そうはならなかった。彼独特の性格もあったし、彼のリーダーシップを拒否する人々もいた。ノケではなく、日本人の講師を中心に教えようという合気会の決定もあった。詳しくは述べないが、このことが多くの問題の原因となり、裁判沙汰にまで発展してしまった。これが、今日フランスでの合気道が幾つものグループに分かれてしまっている理由の一つである。吉祥丸道主は、このことについて興味深いコメントを残している。
生きつづける心の交流
二年の予定を足掛け四年に延期して、ノケ氏は鋭意、合気道の修行に全力を尽し、昭和三十四年に日本を去っていきました。私が誠意をもって遇したつもりの彼も、フランスに帰国してすぐは必ずしも私の期待に応えてはくれませんでした。阿部氏の帰国後、東洋と西洋の考え方の微妙な相違から来る、新任の現地日本人師範との対立、それにフランス人同士の利害関係もからんで一時などは私ども「合気会」から距離を置くに至ったこともありました。植芝 吉祥丸 - 合気道一路 p. 229-230
未来への道
ノケの日記を研究したことは、いろいろな意味で非常に勉強になった。植芝盛平先生を含め、我々人間は皆そうであるが、ノケも多くの矛盾を抱えた人物だったということを改めて知ることになった。実際、合気道にも同じことが言える。合気道は、対立を回避、あるいは解決することを目的としているが、そのコアには解決すべき不和の火種を常に抱えている。特に、合気道は死を招きかねない武道であるにもかかわらず、傷つけずに相手を制するという理念がある。革命的に柔軟な哲学であり、日本の文化的な価値観に根ざしているが、世界中に広めようという意図がある。そう考えると、海外のみならず、日本の中でさえ、合気道になぜこれほど多くの解釈が存在するのか不思議ではない。だからこそ、一生をかけて合気道を研究しようという気持ちにさせるのだ。
この研究はまた、個人的なレベルで非常に共感できるものであった。前号(2020年5月号)に書いたが、私には、少年時代の私のヒーローであったアンドレ・ノケとクリスチャン・ティシエの足跡を辿って日本で合気道を勉強したいという夢があった。私はその夢を叶え、この10年間、本部道場の畳の上で、大変多くの学びを得てきた。さらに、アンドレ・ノケの日記や、クリスチャン・ティシエとの個人的なディスカッションを通じて、彼らの性格を鑑みつつ、彼らがどう合気道を理解しているのか分析してきた。こうした先達の合気道の開拓の旅に関する注意深い研究が、合気道における自分自身の道を開く鍵となることを発見したのだ。
最後に、ノケの日記から次の部分を引用し、今回の結論としようと思う。彼らの足跡をしっかりと追っていけることを願いながら。
我々の道
いつの日か、決して怒らず、恐れず、悲しまずにいられる自分になることを、私は厳粛に誓う。
正直にして快活、思いやりがあり、力と勇気と情熱を持って自身の人生の使命を果たそう。平和と愛に満ちた心を持ち、尊敬される人間としての生を常に送るつもりだ。1957年1月24日、アンドレ・ノケの日記より抜粋、天風会訪問後に記す
翻訳◎三上尚子
文◎エラール・ギヨーム
フランス出身、科学者(分子生物学の博士号)および教育者であり、日本の永住者。東京の合気会本部道場で稽古を行い、合気道道主植芝守央から六段、大東流合気柔術四国本部から五段と教師の免状を授与される。フルコンタクト空手も練習している。自身の「横浜合気道場」で合気道を教えており、定期的にヨーロッパを訪れ、合気道や大東流のセミナー、武道の歴史についての講義を行っている。