今や世界中へ普及した合気道。その草創期に来日、修行に励み、外国人合気道家の魁となったアンドレ・ノケ師範。本シリーズ記事では、ノケ師範の衣鉢を継ぐ合気道史研究家ギヨーム・エラール氏が、師が残した貴重資料とともに、この武道が躍進した時代の”もう一つの合気道史”を紹介していく。第一回では、初の外国人内弟子として、植芝盛平翁をはじめ、高弟たちとの交流に彩られたノケ師の武道人生を振り返る。
この記事は、「月刊秘伝」2020年4月号に掲載されました。
合気道と、その原型となった大東流合気術の違いは、技術よりもむしろその哲学にあると言えます。最も注目すべきことは、合気道には普遍主義への貢献という理念があり、それはおそらく出口王仁三郎が植芝盛平に与えた影響の結果であると考えられます。1948年の設立以来、公益財団法人合気会はこの理想を積極的に追求し、国内外のさまざまなメディアを通じて、合気道のメッセージと技術カリキュラムを伝え、振興に注力してきた結果、合気道は世界中に知られることになりました。1955年、植芝吉祥丸のもと、本部道場は初めて外国人のために門戸を開き、フランス人のアンドレ・ノケ氏を最初の外国人の内弟子として迎えました。3年後にフランスに帰国したノケは、同地での合気道の発展に重要な役割を果たすわけですが、あまり知られていない事実といえば、日本での合気道の発展にもノケの貢献は大きかったということです。最近私は、彼の個人的なアーカイヴの管理人になったこともあり、今回の連載でアンドレ・ノケ氏を日本の読者に紹介し、これまで公開されなかった書類なども開示したいと思います。
フランスでの青春時代と武道との出会い
アンドレ・ノケは、1914年7月30日にフランス西部の農家に生まれました。活発で、身体を動かすのが大好きな少年は、格闘技であるグレコローマン・レスリングを始めました。1929年に軍学校に通う間、「柔術」という当時あまり知られていなかった護身術も学びました。.
プラヘックのノケ家の家
有名なパリのデスボンネット学校を体操インストラクターと理学療法士として卒業した後、彼は1937年から「フランス柔術クラブ」の創設者であるモーシェ・フェルデンクライス博士のもとで柔術を学ぶために、頻繁にパリに通うようになりました。彼はまた、1938年に柔道の先駆者である川石酒造之助の17番目の生徒になりました。
30代のアンドレ・ノケ
ノケは第二次世界大戦で対空砲手として戦いましたが、1940年6月4日のダンケルクの戦いの終、捕虜になりました。1943年10月11日、彼は収容所を何とか脱出し、レジスタンス運動に加わります。戦後、彼はその勇敢さを称えられ、敵地を脱出した兵士に与えられる勲章と、戦闘員に与えられる十字勲章を受章しました。
戦後の練習と合気道との出会い
戦後、ノケはアングレームで武道の活動を再開し、1945年9月12日に、彼は川石から第56番目の柔道黒帯と護身術の免状を授与されました。ノケはその地で最初の柔道クラブを設立し、ボルドー警察に柔道と柔術を教えました。
1949年、川石は合気道の演武のため、植芝盛平の弟子であった望月稔を招聘しました。合気道のテクニックにおける転換、優雅さ、そして洗練性は、ノケに強い印象を与え、彼はその場で望月の弟子として入門し、望月がフランスを離れる1952年まで、彼のもとで熱心に学びました。次にヨーロッパで合気道の責任者となったのは阿部正先生でしたが、彼の合気道はより峻烈で、ノケにとってはそれがさらに印象的でした。1954年に安倍はノケを初段に昇段させました。彼はその時柔道4段で、ボルドーとビアリッツにクラブを設立し、200名以上の有段者を教えていました。阿部先生は、ノケの熱意と能力に大いに感心し、大先生から合気道を直接学ぶために日本に行くよう勧めたのです。
ノケの訪日は、フランス文化省からの依頼で実現しました。日仏文化協定のもと、二国間関係を強化するためです。ノケの使命は、合気道の創立者である植芝盛平の外国人初の内弟子となり、合気道のほか指圧や整体術などの日本の理学療法を学ぶことでした。
日本へ出発
ノケは1955年8月に日本に到着し、外務省に於いて松尾邦之助の歓迎を受けました。松尾は、その当時は読売新聞の副編集者でしたが、長年フランスに住んでいた経験がありました。ノケは日本語が全く話せませんでしたが、英語は堪能でしたので、滞在中は国際連合協会の佐藤尚武閣下と、フランス語が話せる哲学者の津田逸夫の助けを借りて過ごしました。ノケは、彼のホストたちが合気道について聞いたことがないことを知り、とても驚きました。後にわかることですか、大先生は日本の上流階級の数少ない生徒にのみ教えていたのです。
合気会本部道場の日課
植芝盛平とノケ
アンドレ・ノケは、牛込の本部道場に於いて、植芝吉祥丸とその妻さくこの世話のもと、仲間の内弟子である田村信義と野呂昌道とともに暮らすことになりました。生活と練習の環境は彼にとっては非常に厳しく、特に小さな三畳の部屋で床の上で寝ることはとても困難でした。また、食べ慣れない日本食のせいで、大きな蕁麻疹ができたりもしました。アーカイヴの記録を見ると、彼が孤独を感じていたかもしれないことがわかります。実際、ただ一人の外国人であったことに加え、40歳の彼は(植芝吉祥丸を含め)本部のほとんどの人よりも年上でした。
アンドレ・ノケと植芝さくこ(左)、砂泊吹子(右)砂泊扶妃子
内弟子は毎日約5時間、20人ほどの他の正規の生徒と一緒に稽古しました。ノケの一日は、5:00に起床し道場を1時間ほど掃除するところから始まります。毎日同じようなスケジュールが続きました。一日の最初の稽古は6時15分に始まり、当時の道場長である植芝吉祥丸が指導しました。その後30分の休憩を挟み、次の朝稽古を行い、朝食の後は、昼食の時間まで自由練習を行いました。昼食後は、道場は通常、自由練習するために使用されていました。
ノケと弟子の西内、小林(右)
本部では、望月先生と阿部先生は系統立った教育的なアプローチを用い指導していましたが、ノケは何の説明もなしに同じ動きを疲れ切るまで何度も繰り返すよう求められました。磯山博師範の話では、ノケの技術には多くの改善が必要であり、植芝吉祥丸の指導の下で一生懸命練習していたそうです。
合氣神社にて、植芝盛平とノケ
他に少数の外国人、主にアメリカ人らが本部道場で時々稽古を受けていましたが、外国人の内弟子はいませんでした。私は、ノケのアーカイヴの中から、道場の名札掛けの写真を見つけました。当時、黒帯として登録されていた外国人の数を窺い知ることができます。
本部道場の名札掛け
午後4時からは、藤平光一、奥村繁信、大澤喜三郎、多田宏といった指導者による正式な授業が行われました。授業の後には30分間の休憩と、再び1時間の稽古がありました。
本部道場にて
藤平光一が教える授業は、ノケの日記に最も多く記されています。津田が不在の時、藤平先生は本部でノケとコミュニケーションをとることができる唯一の人間だったようで、彼の影響はとても強かったと言えるでしょう。
本部道場にて、藤平光一とノケ(小林保雄師範からご提供いただきました)
合気道が国際的に知られるようになるその始まり
奥村繁信によると、ノケの到着により、道場は国内外のジャーナリストの注目を集めるようになったということでした。ノケ自身も、日本の新聞に柔道と合気道に関するいくつかの記事を書きました。
アンドレ・ノケが読売新聞に寄稿した記事(多田宏師範からご提供いただきました)
ノケによる外国の政治機関への呼びかけも手伝って、日本在住の外国人高官に合気道を紹介する公式なイベントが開催されました。1955年9月28日、彼は本部道場で、合気道の精神面について、幾つかの大使館の文化担当者向けに、初めて会見を開きました。これをきっかけに、フランス大使館の文化情報局がスポンサーとなり、1956年9月25日、マスコミと外国大使館の代表者向けのイベントが本部道場で開催されました。このイベントの間、大先生は合気道の精神的な理想について講演し、その後ノケが参加した演武を行いました。このイベントは、国境を超えた大成功を収めました。
アンドレ・ノケに関する読売新聞の記事(多田宏師範からご提供いただきました)
ノケは、彼の日記にも記されている通り、1956年11月11日の記念日を含め、外国の記者や政治家に何度も話をしてきました。1955年9月に、日本橋・高島屋の屋上で最初の合気道演武が行われたとき、ノケはすでに日本にいましたが、彼の関与の程度についてはよく分かっていません。彼はその後、読売新聞主催による渋谷の東横百貨店屋上での演武会には参加しています。
東京・渋谷の東横百貨店の演武会(小林保雄師範からご提供いただきました)
1956年11月20日の日記に、ノケはプロモーション映画の計画を記載しています。天気の良い春の日曜日に、東京の椿山荘の庭でカラーシネマスコープ16mmフィルムを使用して撮影されることになっていました。彼は、大先生とグループ練習のシーンについて、禅に触発されたどこか夢のような場面になるだろうと説明しています。
映画の計画を説明するノケの日記
私は、ノケの白黒8mmフィルムアーカイヴから、この説明に合う抜粋を見つけました。それらを多田宏師範に見せたところ、椿山荘で撮られたものだという確認が取れました。これにより、1957年の春に撮影が行われたことはわかっていますが、プロジェクトが完了しリリースされたかどうかは不明です。
椿山荘で撮影されたビデオからの抜粋
その他の武道体験とその公認
余暇には、ノケは富木謙治先生から護身術を学びました。彼はまた、藤平光一に連れられ、中村天風の下で稽古するために、何度か天空会に行きました。ノケは日記に、サヴォイという人物の下でのケンポウを修行したと書いています。また、ノケの記録をいろいろ見ていく中で、瀧本派不遷流柔術流派の創始者である瀧本鉄骨の下で修行している写真を見つけました。
アンドレ・ノケと瀧本鉄骨とその生徒たち
ノケはまた、大山倍達先生と極真空手を勉強し始め、山での修行も行いましたが、すぐに大先生が合気道に集中するように注意したことからそれを止めました。
ノケの使命には、日本の伝統的な治療を学ぶこともありましたが、1955年冬に東京で開催された少なくとも1つの集中指圧セミナーに、一般社団法人国際指圧普及財団の会長である浪越徳治郎と参加し、彼から初級と中級レベルの免状を授与されました。彼はまた、西式健康法の創設者である西勝造からも学びました。西は、合気会本部道場の指導者であり、合気道の準備運動として今でも行われる金魚運動を考案した人物です。
本部道場にて、アンドレ・ノケ、植芝盛平と浪越徳治郎(右)
1957年、フランスに帰国する前に、ノケは植芝吉祥丸から指導員の称号を授与され、富木謙治から護身術の免状も授与されました。
ノケの指導員証明書
日本を離れ、フランスへ帰国
ノケは1957年10月に横浜港を出港しました。彼はアメリカ合衆国に立ち寄り、フレスノ警察署にて合気道を教え、1958年2月11日にアメリカ合衆国のナショナルエクスチェンジクラブから賞状を授与された後、1958年の夏にフランスに帰国しました。
横浜港にて、日本を出発するノケ
彼は教育省から、日本で学んだことと、15世紀以降に開発された伝統的なヨーロッパの武術の関連性についての広範な報告書を書くように指示されていますが、残念ながらこのレポートの痕跡は見つかりませんでした。
ヨーロッパでの合気道の推進
1959年12月10日に、ノケは阿部正から4段に昇段されました。1960年5月20日、阿部はフランスを離れる前に、ヨーロッパでの合気道の発展を担う彼の後任として、ノケを任命しました。
阿部正からアンドレ・ノククテへの手紙
ノケは、1961年に彼の稽古のパートナーである野呂昌道と中園睦郎を、1964年には田村信喜をフランスに迎えるよう植芝吉祥丸から依頼されました。残念ながら、こうした上級指導員の参加が、すでに問題を抱えていた合気道コミュニティ内の緊張を悪化させ、その結果、現在もなお分裂が続いています。
植芝 吉祥丸からアンドレ・ノククテへの手紙
ノケは、ヨーロッパ中で講義や演武、そしてセミナーを行い、現在指導者たる上級合気道家を教え育ててきました。彼はまた、国立空挺部隊の兵士と国家警察の警察官にも教えてきました。1973年、彼は望月実の息子である望月拡雄と田村信喜と組み、現在も使われている合気道カリキュラムの体系を整えます。彼はまた、合気道指導員を国家資格として確立する手助けをし、1975年には、欧州合気道連盟を設立しました。
1975年から、ノケは合気道に関する最初の著書を書き始め、その後、他の2冊を出版しています。ノケは彼の著書「Zen Et Aiki Ne Font Qu’Un(禅 合気 一如)」からの収益を、1995年の阪神大震災の被災者救済のために寄付しました。彼は合気道の振興のため、何度もテレビやラジオのインタビューを受けています。
アンドレ・ノケの著書
ノケは1982年7月10日にフランス国家功労勲章騎士の称号を授与され、さらに1994年4月2日にはレジオンドヌール勲章シュヴァリエを受章しました。彼は1985年に、欧州合気道連盟から合気道8段を授与され、1990年には、合気道道主である植芝吉祥丸にフランスのスポーツ省からの金メダルを授与するために33年ぶりに来日しました。
東京のフランス大使館にて、植芝吉祥丸とアンドレ・ノケ
アンドレ・ノケは1999年3月12日に84歳で亡くなり、故郷のプラヘックに埋葬されました。
プラヘックにあるノケの墓
翻訳◎三上尚子
フランク・ドクランさんそしてクロード・ドゥーシェインさんへ
アンドレ・ノケの所有物を私に提供していただき感謝申し上げます。
オディロン・ロニャール
これらの資料の分析の協力をありがとう。
文◎エラール・ギヨーム
フランス出身、科学者(分子生物学の博士号)および教育者であり、日本の永住者。東京の合気会本部道場で稽古を行い、合気道道主植芝守央から六段、大東流合気柔術四国本部から五段と教師の免状を授与される。フルコンタクト空手も練習している。自身の「横浜合気道場」で合気道を教えており、定期的にヨーロッパを訪れ、合気道や大東流のセミナー、武道の歴史についての講義を行っている。